「死は語ることはできない」と恐山の禅僧が語る理由──異色の僧侶が40年の修行でたどり着いた哲学

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(写真:M・H/PIXTA)
「死は、語ることはできない。語られた死は死ではない。」──そう語るのは、青森・恐山菩提寺の院代を務める禅僧・南直哉(みなみ・じきさい)氏だ。
1958年長野県生まれ。早稲田大学卒業後、大手百貨店での勤務を経て26歳で出家得度。永平寺に20年身を置いた後、2005年より恐山へ。2018年には『超越と実存』が小林秀雄賞を受賞するなど、宗教思想の言語化に挑み続けてきた。
異色の僧侶が40年の思索と体験を通して導き出した、現代人のための“生と死の哲学”の言葉とは?
*この記事は南氏の著書『「死」を考える』から一部抜粋したものです。

死について語れる人間はいない

世の中にあふれる死についての語りは、死を語っているのではない。彼らが語っているのは、ほとんどの場合、死ぬまでの話か、死んだ後の話にすぎない。死そのものは語れるはずがないのである。

死ぬまでの話は、要するに、老いと病と我が身の始末についての話であろう。どうそれらに対処するかという、生きている間の案件にすぎない。

死んだ後の話は、古今東西、人類の社会と文化のあるところ必ず語られるが、その物語が本当かどうか確かめる術は原理的に存在しない。

だいたい私の知る限り、「死後」の話をしている人物は、全員生きている。その話のすべては、生きている人間が、生きている間に、生きている限りの経験として、なされているにすぎない。死人が出てきて死後の話をしているわけではないのだ。

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