「死は語ることはできない」と恐山の禅僧が語る理由──異色の僧侶が40年の修行でたどり着いた哲学

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この「前」「後」の話以外によく出てくるのは、いわゆる「臨死体験」と「脳死判定」にからむものである。

まず、そもそも「臨死体験」は死の経験ではない。当人は要するに生きているのだからこそ、「臨死体験」を語れるのである。

また、「脳死判定」は死を検出して判定しているのではない。検出しているのは、脳の生理的過程と反応である。そこに特定の不可逆的現象を検出したとき、それを「死」と考えようというだけのことなのだ。人工呼吸装置の発明が「脳死」のアイデアを制作したのである。

つまり、「脳死判定」は、死が絶対的に「わからない」純粋な観念であることを、最も端的に示している例である。誰にもわからないから、ご時世の都合で適当に決めて、法律で強制できるのである。

死は、いかにしても語ることはできない。というよりも、語られた死は死ではない。いわば、死はわれわれに対して「絶対答えられない問い」として以外に現前しないのだ。

「死後の話」を欲望させるものとは

死は語り得ないが、死後についての話は世に尽きない。

たとえば、私がいま住職代理(院代)を務めている恐山(恐山菩提寺)は、古くから「霊場恐山」と呼ばれていて、これを聞けば大概の人は、「幽霊の出る恐いところ」、と思うだろう。

あの火山岩がゴロゴロしたところに風車が林立する現実離れした風景と、いわゆる「イタコ」さんの存在からすれば、そう思われるのも無理はない。

それが証拠に、数年に一度、恐山には東京のテレビ局から、「スピリチュアル」系のバラエティ番組の取材依頼がある(ちなみに、恐山はこの種の番組の撮影とイタコさんに対する境内での取材は一切受け付けない)。

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