「死は語ることはできない」と恐山の禅僧が語る理由──異色の僧侶が40年の修行でたどり着いた哲学
一つは、死ぬまでの身体的苦痛だろう。「死がイヤなんじゃない、死ぬのがイヤなんだ」という誰かのセリフは、それを言っているのだろう。
もう一つは、「死んだらどうなるか」という問題だ。結局、それらは、「死そのもの」ではなく、「死ぬ前」と「死んだ後」の話にすぎない。
このとき、「前」は主に医療の問題であり、「後」は宗教の領域にある。その「後」の問題で肝心なところは、それがあくまでも「自分の死後」の話だということである。
だが、この「自分の」という意味について、よく考えておかなければならない。
「死の不安」は、実は「自分が存在していることの不安」に直結している。それゆえに人々は、「死後の世界」を強く求めるようになるのである。
死が絶対にわからないことだとすれば、それは言うなれば、「生きていく」ということが、行先のわからないまま歩いているのと同じで、要は「彷徨っている」のである。これは不安だろう。
目的地がわからず彷徨っている不安をかろうじて抑えているものがあるとすれば、出発地点はまだ覚えている、ということだ。いざとなったら帰ろう、出発地点に引き返して出直そう――そう思えばこそ、現在の彷徨に耐えられもしよう。
とすると、死が何かわからないという不安がどうにも解消できないとなると、思考は反転し、では生まれるほうはどうだ、となる。出発地点を確認したくなるわけだ。つまり、なぜ生まれてきたのかがわかれば、死の意味もわかるかもしれない、と考えるのである。無理もないところではある。
ところが、死と同様、自分がなぜ生まれたかも、絶対にわからない。死と同様、誕生するとき、それを経験できる「自分」はいないからである。
われわれは何の理由も根拠もなく生まれる
生まれた後に、その「理由」の話をする人間は大勢いる。ある者は「神が命令した」と言い、別の誰かは「仏が送り出した」と言うかもしれない。しかし、何を言おうと、それらはすべて後知恵で、本当かどうかは確かめようがない。本当か噓かわからないことは、普通「理由」や「根拠」にならない。
生まれてくる前、母親のお腹の中にいる間に、どこからか何かの声が聞こえてきて、「君は○○年△△月××日に、日本の某県に、こういう人を両親として生まれ、およそこういう人生を送ることになりますけど、よろしいですか?」と問われて、「ハイ!」と返事して生まれてきたなら、これを「理由」だの「根拠」だのと言うのも道理だが、それ以外はお伽噺と変わらない。
われわれは事実として、何の理由も根拠もなく生まれる。ということはすなわち、自分の生の意味も価値も知らぬまま、問答無用、ただ生まれてくる。これは死の絶対的なわからなさと同様の「原理的なわからなさ」なのである。
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