「死は語ることはできない」と恐山の禅僧が語る理由──異色の僧侶が40年の修行でたどり着いた哲学
ここ最近で一番笑ったのは、某局のアシスタント・ディレクターらしき若者が恐る恐る申し出てきた、「幽霊の実況中継」なる企画である。
「ご存じかどうか知りませんが、この種の番組はほとんど、写真か再現フィルムしか出てきません。しかし、私たちは違います! 夜中に恐山の岩場にテントを張って、出るまで待ちます‼」
これを正気で言っているなら、番組のレベルが知れるところだろうが、問題は幽霊が出るかどうかではない。そうではなくて、この種の番組が繰り返し放送されていること、つまり、一定の視聴率がコンスタントに取れるほどの需要が、いつまでも尽きないということだ。
ちなみに、ご承知のように、幽霊や霊魂が存在するかどうか、死後の世界があるのかないのかなど、これらの疑問について、仏教では、ゴータマ・ブッダ(お釈迦様)の時代から、公式見解が決まっている。それは「答えない」という答えである(この態度を称して「無記」と言う)。その意味を私流に言わせてもらえれば、あると言ってもないと言っても、その断定はナンセンスになるということだ。
「ある」と言うなら、すでに述べたとおり、この話はすべて生きている人がしているのだから、それは断然「死後」の話ではない。
では、「ない」と言い切れるか? 古今東西、社会と文化のあるところ、こういう話のない社会と文化は、ただの一つも存在しない。これだけ人類が熱心にし続けている話が、最初から根も葉もないでっち上げと言う根拠もないだろう。
かくのごとく根拠不明にもかかわらず、世に「死後」の話の需要は厳然と、しかも大規模に存在する。この需要はどこから来るのだろうか。
それは不安からだろう。死の不安が、「死後」の話を欲望させるのだ。
死と同じように「生」も絶対にわからない
不安は恐怖とは違う。不安は正体不明のものに脅威を感じることである。恐怖はその対象がわかっている。
「幽霊の 正体見たり 枯れ尾花」という諺があるが、「幽霊」と「枯れ尾花」の区別がつかないから、人は不安になるのであって、それがまさに「幽霊」だとわかって初めて、恐怖するのである。
死が絶対にわからないなら、恐怖することはできない。では、人が「死ぬのが怖い」と言うとき、何を言っているのか。「怖い」対象は何なのだろうか。



















無料会員登録はこちら
ログインはこちら