「東急vs西武」昭和の四季報に刻まれた分岐点 鉄道会社が住宅地や百貨店、ホテルを築いた時代
西武園などのレジャー施設の好調に続いて、観光地である秩父へのアクセス路線を新設し、月一億円増収という明確な収益目標を立てていた。西武の鉄道は、沿線住民の輸送はもちろんのこと、自社で開発したホテルや遊園地といった観光地へ顧客を運ぶ点を重視していた。
1970年代:脱鉄道経営が本格化していく
急拡大が続いてきた私鉄経営も、1970年代に入ると頭打ちとなってきた。
1970年秋号の東京急行電鉄の項には「鉄道部門は、新玉川線の建設という事情もあり伸びが頭打ち。鉄道、バスを主体とする考え方を捨て関連会社を鉄道やバスと同じレベルに引き上げるため、七つの事業部の分担による大幅な機構改革を断行した」とある。
東急では鉄道収入の伸びが頭打ちになる中、脱鉄道に向けた構造改革を行い、鉄道を中心とした考えを捨て、不動産やその他の事業を新たな柱とする方針に転じていった。



















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