「東急vs西武」昭和の四季報に刻まれた分岐点 鉄道会社が住宅地や百貨店、ホテルを築いた時代
東急は新線の建設と並行して、ホテルや自動車道(ターンパイク)にも乗り出したことが書かれており、鉄道以外の強化がみられる。また、西武は、すでにホテル等の副業が好調で、経営の比重の大きい柱となっていることがわかる。1961年夏号では、西武が「三浦半島の開発に積極的」とした記述もあり、自社の鉄道網にとらわれない開発方針がみられる。
1960~70年代:開発で両社のモデルが確立
1960年代半ばになり、東急は本格的に多摩田園都市の開発に力を注ぐ。
1965年夏号の東京急行電鉄の項には次のようにある。
「多摩田園都市の開発、明年三月に溝ノ口~長津田間開通を目標に田園都市線の延長、新玉川線の建設など輸送力の増強、沿線の開発を継続中」
新しい鉄道路線(現・田園都市線)を敷設し、同時にその沿線を開発して多摩田園都市という巨大な住宅開発を行った。鉄道沿線に街を作り、鉄道の利用者を増やすという、今では考えられないような大規模な開発計画だった。
一方、西武は住宅開発よりも、観光を軸にした開発を進めているように読み取れる。
1969年夏号の西武鉄道の項には「池袋線吾野駅から秩父市に至る一九・一キロの秩父線建設工事はほとんど完了。予定を一ヵ月繰り上げて一〇月開業をめざす。これで月一億円増収となる」とある。



















無料会員登録はこちら
ログインはこちら