「農業は政治の本なり」 大河【べらぼう】蔦重の宿敵、老中・松平定信が成果を上げた"米を蓄える"ための「納税」ではない超現実的な政策とは

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(写真:マハロ / PIXTA)
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今年の大河ドラマ『べらぼう ~蔦重栄華乃夢噺~』は横浜流星さんが主演を務めます。今回は松平定信の政治理念を解説します。
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定信「大量の餓死…幕府や藩の無策ゆえ」

徳川幕府の老中に若くして就任した松平定信(1759〜1829)でしたが、国の政治の舵取りは容易ではありませんでした。定信が危惧したのは、飢饉が続けば餓死者が続出するという国の現状と、それ(飢饉)に対する幕府や諸藩の対策の甘さ。

古代中国の経書(儒教の経典)『礼記』には「国に九年の蓄えがなければ不足である。六年の蓄えがなければ、危険な状態である。三年の蓄えもないのであれば、国に非ず」との一文が載っていますが、定信は「意見書」において、この一文を引き、現在の幕藩制国家の危うい現状を訴えたのです。

天明年間に発生した天明の大飢饉(1782〜1787)において、特に奥羽・関東地方で大量の餓死者が出てしまいましたが、定信からすると、このような出来事も幕府や藩の無策ゆえと感じていたことでしょう。

では、定信は、どのようにして国家が国家として成立する要件ともいえる9年分の食料を備蓄しようとしたのでしょうか。

まず、大切なのは、有事の際に慌てて食料をかき集めることではありません。「平日」(平時)において備えることです。平時から、しっかりした規則、財政制度を設けて、蓄えていくことが肝要なのです。

もちろん、幕府や諸藩もこれまで何も手を打っていなかったわけではありません。凶作や飢饉の時の救済を目的にして、米穀を蓄える倉(義倉、社倉)は設けられていました(水戸・会津・薩摩・岡山・広島藩などで実施)。

江戸幕府も、各地の城に飢饉対策として転用できる城詰米(兵糧米)を蓄えていました。幕府の蔵には、かつて囲米(有事の備えとして備蓄された米)がありましたが「御不益」(無益)として、廃止されています。いざとなれば、幕府の御威光をもってして、町人から「金銀米穀」をいかほどでも集めることができる、よって囲米は必要ないとの考えが働いたようです。 

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