「農業は政治の本なり」 大河【べらぼう】蔦重の宿敵、老中・松平定信が成果を上げた"米を蓄える"ための「納税」ではない超現実的な政策とは

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しかし、その考えが甘かったということは、天明の大飢饉の惨状が証明しているでしょう。飢饉などの有事には、御用金(江戸幕府や藩などが窮乏を補うために、農民や商人などに課した金)を賦課すればいいとの考えもありましたが、定信は御用金の賦課には否定的でした。

御用金自体が人気がよろしくなく、いざという時に御用金を命じても、素早く金を差し上げる者は多分いないという情勢判断があったからでした。また、定信には「御用金にて下々(民衆)を救っても、下々は帰服しない」との考えを持っていました。

定信が検討した次なる施策

では、どうすれば良いのか。定信が考えたのが、上米制の導入です。これは定信の独創ではなく、彼の祖父・徳川吉宗(幕府8代将軍)が採用した制度であります。享保7年(1722)に、徳川幕府が財政窮乏対策の一環として導入した制度です。

どのような制度かというと、諸大名に対し、1万石につき毎年100石ずつの「上米」を命じ、その代わりに参勤交代の江戸在府期間を1年から半年に短縮した制度でした(幕府の財政が安定してくると廃止されました)。

定信は、この上米の制を復活させようとしたのです。ただし、参勤交代の江戸滞在期間を半年に短縮することは採らないつもりでした。大名らは国元よりも、江戸滞在を好む傾向にあるから、上米の負担の見返りにはならないとの考えからです。

では、どのような「特典」が有効か。幕府への献上物を半減させる案を定信は提案しています。が、定信が計画した上米制の復活は実現しませんでした。「大名も凶作等で難渋している」との理由が要因だったようです。

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