俳優・山本學が感じた【認知症で衰えるのは「知の働き」だけではない】という"当たり前の現実"
ただ、わからないことについて質問しないで、自分のこれまでの経験や知識から、勝手に「こうだ」と理解しているときは、我ながら頑固になったものだと感じます。
年寄りはニコニコしていて従順なイメージで語られることも多いけど、逆なんじゃないかとさえ思う。ニコニコしながら内心、「君はまだ若いんだ」と優越感を持つことによって、自分をかろうじて支えているんです。
朝田 高齢者のほうが「こうなんだ」と言って聞かない、頑固の塊のようになってしまっている、と。
『論語』でいうところの「七十にして心の欲するところに従えども矩(のり)を踰(こ)えず」は、逸脱しないということでもあります。
これは本来、老の美徳でもありますが、頑固になって我(が)を通すことで、世間一般の規範や常識から逆に逸脱してしまっている。これもまた、前頭葉の衰えによる結果なのでしょう。
その自覚もある程度は持っているものだから、かえって知が偏重されているようにも思えますね。
「論破」は、ちょっと違うんじゃないか
山本 昔はわからないこと、知らない情報があれば辞書を引くとか、知っている人を探して聞くとか、そういうことが多かった。けれども今はインターネットの時代で、もう本当に簡単に調べ物ができるようになり、「知」があふれてしまっていますね。
何て言うのか、中身ではなく言葉の上っ面の部分が簡単に組み合わされて、薄っぺらな知だけが独り歩きしているように思えるんです。
朝田 言い方を変えれば、パソコンもインターネットもその典型で、世の中が「知」だらけになっていて「情」や「意」が後回しにされてしまっている。
大昔、類人猿であるネアンデルタール人が滅んで、我々ホモ・サピエンスが席巻することとなりました。ネアンデルタール人の持っていた「知」は、家族的な狭い意味での知、狩猟をする、子育てをする、寒さを凌ぐといったものだったはずです。
一方で、現代の知はパソコンとインターネットで何でもわかってしまう「即物的な知」に過ぎません。なのに「知ファースト」が当たり前のようになっている。

















