中国・明王朝の大事件「魚呂の乱」で約3000人が死刑に 発端は後宮での"女の恨み"、数百人は冤罪…残虐な殺害方法に怯えて自害する者も

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これが、第1の事件である。永楽19年(1421年)、第2の事件が起きた。第1の事件の影の張本人である呂氏は、魚氏という側室とともに、美少年の宦官と肉体関係をもっていた。宦官は去勢されているので性行為はできないはず。しかし、詳細は不明だが、宮女が宦官を使って欲求を満たす秘技が、後宮ではいろいろとあったらしい。浮気が露見する寸前、呂氏と魚氏は、永楽帝によって残酷に殺されるよりは、と自殺した。

冤罪を気にもとめず…さらに2000人以上が極刑に

この自殺事件のあと、永楽帝は宦官に命じ、呂氏の周囲を洗わせた。すると、出るわ出るわ、後宮の積年のドロドロとした秘事が次々と明らかになっていく。11年前の「呂婕妤が権賢妃を毒殺した」という告発は根も葉もないうそで、処刑された数百人は冤罪だったこともわかったが、酷薄な永楽帝は、気にもとめなかった。

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宦官は今回もきっちり仕事をした。秘伝の拷問術で宮女たちに恥辱と苦痛を与え、次々と「自白」を引き出していったのだ。

「実は、陛下を亡き者にしようと企む者もおりました」

とうとうある宮女は、「自白」をしてしまった。

永楽帝は数え62歳になっていた。そろそろ「終活」を考え始める年齢だ。彼は、皇帝暗殺未遂の大逆事件を名目に、後宮の宮女や宦官を整理することにした。こうして、2180人余りが極刑になった。

人数が多すぎて一度に処刑できない。永楽帝は政務や外征で多忙を極めたが、宮女を処刑するたびに自ら立ち会い、刀をふるって宮女の肉をそいだ。宮女の中には皇帝に向かい、痛罵した者もいた。

「てめえが老いぼれて立たないから、若い宦官とやるしかなかったんだ。どこが悪い」

後宮は巨大な密室である。東廠や錦衣衛(きんいえい)などの秘密警察による言論統制は完璧だった。中国では今も昔もよくあることだが、この血の惨劇も闇から闇へ葬られた。中国の文書記録には1行の記載も残っていない(以上は、明の後宮に長年仕えた朝鮮の女性・金黒が帰国後に伝えた実話である)。

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加藤 徹 明治大学法学部教授

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かとう・とおる / Toru Kato

1963(昭和38)年、東京都に生まれる。明治大学法学部教授、日本京劇振興協会非常勤理事、日本中国語検定協会理事。専攻は中国文化。東京大学文学部中国語中国文学科卒業。同大学院人文科学研究科博士課程単位取得満期退学。90〜91年、中国政府奨学金高級進修生として北京大学中文系に留学。広島大学総合科学部助教授等を経て、現職。『京劇 「政治の国」の俳優群像』(中公叢書)で第24回サントリー学芸賞(芸術・文学部門)を受賞。他書に『西太后 大清帝国最後の光芒』(中公新書)、『漢文力』(中公文庫)などがある。

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