中国・明王朝の大事件「魚呂の乱」で約3000人が死刑に 発端は後宮での"女の恨み"、数百人は冤罪…残虐な殺害方法に怯えて自害する者も

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

話は元の時代にさかのぼる。元の属国となった高麗国は、「高麗貢女」と呼ばれた貢ぎ物の美女と、宦官用の青年を北京のモンゴル皇帝へ献上した。元が滅んで明王朝になると、王朝交代の激震は朝鮮半島にも及び、高麗国が滅亡して1392年、朝鮮王朝が成立した(朝鮮という国名の使用は翌年から)。今度は「朝鮮貢女」が献上され続けた。

嫉妬からうその告発、数百人が処刑される

永楽6年(1408年)に明の永楽帝に朝鮮から献上された権賢妃(けんけんひ。1391年〜1410年)は、朝鮮国の名門の娘で、たいへんな美女であった。『明史』后妃伝には「善く玉簫(ぎょくしょう)を吹き、帝、之(これ)を愛憐(あいれん)す」とある。笛を吹くのが上手で永楽帝の寵愛を受けた、という意味だが、「笛を吹く」は性的な技巧を暗示すると深読みする者もいる。彼女は翌年「賢妃」に封ぜられた。

元も明も、歴代皇帝は朝鮮の美女を好んだ。呂婕妤(りょしょうよ。1393年〜1413年)も朝鮮出身で、権賢妃と同じ永楽6年に永楽帝に献上された。彼女は同じ朝鮮出身の権賢妃が永楽帝の寵愛を受けていたことに嫉妬し、後宮でも権賢妃に対して露骨に無礼な態度をとった。

永楽帝の後宮にはもう一人、呂姓の側室がいた。

「私は中国の呂。あなたは朝鮮の呂。出身国は違っても同姓のよしみで仲良くしましょう」

中国の呂氏は、呂婕妤に近づいた。中国の後宮は魑魅魍魎の伏魔殿だ。朝鮮の呂氏は、中国の呂氏を警戒し、距離を置いた。中国の呂氏は腹のなかで恨んだ。

永楽8年(1410年)、永楽帝はモンゴルに親征を行い、権賢妃も戦場につきしたがったが、戦争に勝って帰還する途中、権賢妃は急に亡くなった。数え20歳の若さだった。

永楽帝は嘆き悲しんだ。中国の呂氏は、永楽帝の耳元でささやいた。

「権賢妃は毒殺されたのです。呂婕妤が、毒を胡桃麺茶(くるみめんちゃ。小麦粉に砕いたクルミを混ぜて炒った、ドロリとした飲み物)に混ぜたそうです」

永楽帝は激怒した。別の説では、呂婕妤の奴婢(ぬひ)と権賢妃の奴婢が喧嘩をして、後者が毒殺説を吹聴したともいう。いずれにせよ、永楽帝は宦官に調査を命じた。宦官は忠実に職務を果たした。呂婕妤と彼女に仕える宮女たちに残酷な拷問を加え、罪を「自供」させたのだ。

永楽11年(1413年)、呂婕妤に仕えていた侍女や宦官、その他の関係者は皆殺しになった。処刑された者は数百人にのぼった。呂婕妤は、真っ赤に焼けた鉄を押し当てられ肉を焼かれる刑罰を受け、苦しみの悲鳴をあげながら1カ月かけて殺された。

次ページ宦官との秘事が露見しそうになった呂氏は…
関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事