《進取》の早稲田・《独立自尊》の慶應・《良心》の同志社、伝統私学が「らしさ」を持つに至った歴史的背景
大隈は学問の独立を唱え、自主独立の精神を持つ近代的国民の養成のため、権力や時勢に左右されない、科学的な教育・研究を目指した。しかし、明治政府から危険視され、官吏は教壇に立つことを禁じられ、帝国大学総長の監督下に置かれるなどの圧迫を受ける。
その頃、家永豊吉、大西祝、岸本能武太、浮田和民、安部磯雄ら、アメリカ留学経験のある優秀な新島の弟子たちが早稲田の教壇に立ち、新しい学風の樹立に貢献したのだった。
家永はアメリカ政治学を早稲田に導入し高田早苗に影響を与え、大西は坪内逍遙とともに早稲田文科(文学部)の基礎を築き、岸本は宗教社会学を伝え、浮田は「大隈の懐刀」と呼ばれ学内外で活躍、雑誌『太陽』の編集主幹となり大正デモクラシーのオピニオンリーダーになった。
安部は講義をする傍ら野球部の初代部長を務め、野球というアメリカ文化を日本に定着させた。1905(明治38)年には早稲田の学生たちを率いてアメリカまで遠征し、「早慶戦」の実現にも奮闘した。一方、人道主義や民主主義を基軸とするキリスト教社会主義の政治家としても活躍し、社会民主党を結党した。
早稲田と同志社の絆は1997年に「国内留学」制度として結実し、両大学の学生はそれぞれのキャンパスで半年から1年の学修を体験する。単位互換が可能なこの制度は、理念の共有と精神的交流の礎となっている。
大隈と渋沢が尽力した「国民の成長」
大隈は新島と同等、いやそれ以上に強かった渋沢栄一との関係も、近代日本における教育機関の「らしさ」を考えるうえで興味深い事例だ。
大隈が政府を去り、金融機関からの圧力で財政的に苦しんだ際に、大隈を支えたのが渋沢だった。渋沢は大隈が創設した早稲田大学に対しても複数回にわたって多額の寄付を行い、後には基金管理委員会の委員長も務めて「校賓」に推された。1917(大正6)年からは早稲田大学の維持員(現在の評議員)に就任した。
さらに大隈没後も、現在の早稲田大学の象徴である大隈講堂の設立に際して、故総長大隈侯爵記念事業後援会の会長として支援する。さらに、大隈講堂と並ぶ早稲田の名所である演劇博物館の建設に際しても、坪内博士記念演劇博物館設立発起人代表として尽力した。一方、大隈は渋沢が関わった事業に対して多くの人材を送った。
大隈と渋沢が手を組み貢献した教育機関は、同志社大学や早稲田大学にとどまらない。日本女子大学の創立に際しても、大隈は創立委員長として資金集めに尽力し、渋沢も創立委員兼会計監督として大隈を補佐した。
1913(大正2)年からは、大隈を総裁、渋沢を副総裁として帝国実業講習会が組織され、社会人向けに働きながら学べる通信教育雑誌『実業講習録』を発刊し、職業教育の普及が図られた。こうした活動の背後には、国民の成長こそが国家の発展につながるという2人の強い信念があった。
(後編に続く)
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