《進取》の早稲田・《独立自尊》の慶應・《良心》の同志社、伝統私学が「らしさ」を持つに至った歴史的背景

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同志社教育の「らしさ」は「良心」にある。新島は、日本の教育が智育に力を入れる一方で、「心育」、今の言葉で言えば「こころの教育」がおろそかにされていると考えていた。「精神なき専門家」(マックス・ウェーバー)や「良心なき逸材」を育てようとは思わなかった。

新島は一学生への手紙に「良心の全身に充満したる丈夫(ますらお)の起り来(きた)らん事を」と書いた。その言葉は、同志社大学正門付近をはじめ、日米に建てられた9基の「良心碑」に記されている。

こうした「良心教育」は、単なる道徳教育ではなく、異なる文化や宗教的背景を理解する力を育むものである。

同志社の「開かれたキリスト教主義」

日本では「一神教」という言葉が、しばしば「多神教」の対語として用いられ、ユダヤ教、キリスト教、イスラームがひとまとめにされる傾向がある。また、カルト宗教と伝統宗教を混同し、「宗教がかった」と揶揄する風潮も根強い。

これは、戦後の国家神道体制の否定と政教分離の徹底、さらに1995年のオウム真理教事件などによる宗教への不信感が背景にある。なお、「国家神道の否定」と「神道そのものの否定」を混同する宗教オンチの日本人も少なくない。

日本人の宗教観は儀式中心である。例えば、キリスト教徒でないにもかかわらずキリスト教式の結婚式を挙げる人は約60%にのぼる(明治安田生活福祉研究所、2021年)。クリスマスを祝った翌週には神社へ初詣に行き、葬儀は仏教式で行う。こうした宗教的実践は、信仰というよりも社会的慣習として定着している。

一方、文化庁が2023年に発表した宗教統計では、宗教団体に所属する信者数は人口の約60%に達するものの、実際に「信仰している」と答える人はわずか3〜5%にすぎない。こうした乖離が、「私は無神論者です」と口にする人の多さにも表れている。

「宗教を信じるかどうかは個人の自由である」という原則と、「宗教に関する知識を持つこと」は別の問題だ。信仰の有無にかかわらず、宗教的教養がなければ国際社会の動きや文化的背景を理解することはできない。こうした現実も踏まえて、同志社はキリスト教を中心に宗教文化に対して理解を深める機会を多く提供している。

だが、それを強制することはない。 開かれたキリスト教主義といえよう。

どこの大学も、外国語に加えてデータサイエンス教育に力を入れるようになってきた。同志社大学も同様だが、良心を重視しているのであれば、「精神なき専門家」を生まないようにしてほしい。

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