《進取》の早稲田・《独立自尊》の慶應・《良心》の同志社、伝統私学が「らしさ」を持つに至った歴史的背景

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福澤と新島は、直接の面識を持たないまま生涯を終えた。思想的には異なる道を歩んでいた両者だが、教育という共通の使命においては、互いに敬意を抱いていたことがうかがえる。

福澤は一貫して宗教に懐疑的な立場をとっていたが、晩年にはキリスト教に対して一定の理解を示すようになっていた。この変化に対し、新島は驚きをもって受け止めたとされる(「福沢諭吉をめぐる人々 新島襄」三田評論オンライン、2021年3月30日)。福澤が、宗教は社会の進歩や国民の知識レベルに応じて変化するものと捉え、特定の宗教を盲信することを批判していたためだ。

実は昔から関係が深い早稲田と同志社

早稲田大学は、同志社設立から7年後の1882(明治15)年に、自由民権運動の推進者として知られる政治家・外交官の大隈重信が、東京専門学校を設立したことに始まる。大隈が提唱した「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」という理念に基づき、「進取の精神」を重んじている。

大隈は、福澤と新島の2人を「明治年間に功労ありし教育家で最も推服している」と敬意を表した。福澤は西洋の物質的知識と独立自尊の精神を説き、実践した。一方、新島はキリスト教に基づき「良心」を重んじた。2人の宗教観は対照的だったが、両者ともに「独立不羈」の精神を持ち、社会からの厚い信頼を得ていた点では共通している。

福澤と大隈は当初、互いに「生意気なやつ」と避けていた時期もあったが、明治初期に初めて出会ってからは意気投合し、非常に親密な関係を築いた。大隈が東京専門学校を設立するにあたっては、福澤がアドバイスしている。

新島と大隈が初めて会ったのは1882(明治15)年、大隈が東京専門学校の設立に向けて準備を進めていた頃だ。このとき、新島は同志社大学設立の計画を、大隈は学問独立の必要性について語り、民間教育への貢献を誓う。大隈は、教育に情熱を注ぐ新島を「日本武士の精神とキリスト教の信仰を併せ持つ精神上の勇者」と称えた。

新島が同志社大学設立運動を起こすと、大隈はこれに賛同し、渋沢栄一や岩崎弥之助といった財界の要人たちを集め、同志社への大規模な寄付を呼びかけた。渋沢は個人寄付金では最高額となる6000円(現代の価値にして約1億5000万円)を拠出し、大隈自身も1000円(同・約2500万円)を寄付した。

新島の死後(享年46)も、大隈は同志社の「社友」として深く関わり続け、京都を訪れた際には必ず同志社で演説を行うなど、その関係は「親類のような近親の情がわく」と表現するほど長く続いた。

早稲田大学の草創期(東京専門学校時代)には、同志社英学校の卒業生たちが教壇に立ち、その発展に貢献したという史実がある(「早稲田文化」2008年2月22日)。東京専門学校は、東京帝国大学出身の高田早苗、天野為之、坪内逍遙という「三尊」によって基礎が築かれた。

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