低迷つづく中日ドラゴンズ…往年のファンが懐かしむ「燃える男」星野仙一がいた時代の"熱血4大事件"

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【昭和61年:「1対4」の世紀のトレード】

昭和61年12月23日の夜、中日は記者陣を集めた名古屋市内のホテルで、ロッテの落合博満をトレードで獲得することを明らかにした。

交換要員は抑えの切り札・牛島和彦、レギュラー二塁手・上川誠二、先発も中継ぎもこなす左腕・桑田茂、後には清原和博との乱闘劇を起こした若手中継ぎ投手・平沼定晴の4人。

このオフ落合は、慕っていた稲尾和久監督を球団が解任したことに対する不満を度々口にしていた。また夫妻で出演したテレビ番組では、信子夫人から「セ・リーグでやらせてみたい」との趣旨の発言もあった。

こうした経緯から「落合トレード志願」の記事が連日スポーツ紙をにぎわせることとなり、一部では「巨人入り確定」とも報じられた。

星野新監督の強い意向だった「落合獲得」

新たに中日監督就任が決まっていた星野仙一は、同季首位の広島とゲーム差なしの2位だった巨人に落合が加わればとても勝負にならないとの思いから、球団に落合獲得を強く申し入れる。

ロッテとしても、2年連続3度目の三冠獲得となった落合の年俸要求に応えきれなくなっており、条件さえ合えばどの球団にでも放出したい状況にあったという。

巨人とのトレードにおいては同じ内野手の篠塚和典を交換要員に求めたが、これは巨人が拒否。中日には、エース村田兆治の通算200勝を確実にするために、強力なストッパーである牛島の獲得を要望。これが合意に至って交渉は成立した。

だが収まらなかったのは急遽トレード通告を受けた牛島だ。報道陣の集まるホテルに呼び出されると、トレード承諾を即断即決するよう求められたが、一旦保留。これまでのチームへの貢献を軽視するかのような扱いへの怒りで、一時は本気で引退まで考えたという。

だが25日の午前2時、「ネクタイを締めてこい」と呼ばれた星野の自宅で、やはりネクタイ姿の星野からおよそ2時間にわたる説得を受け、ロッテへの移籍を受諾する。

中日入りが決まった落合は、契約更改において年俸1億3000万円(推定)でサイン。日本人選手初の1億円プレーヤー誕生となった。

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