「人生がどうなるかは自分次第」と考える人は、個人主義のレンズを通して自分の人生を眺め、妄想的な世界観を抱いている
だが、こうした出来事は例外らしく、私たちが、よくもまあ、こんなことがあった、と感嘆するのは、それが稀(まれ)で珍しいことだからにほかならない。
私たちは、自分の人生が偶然でできているという気がしない。大きな、願わくは賢明な選択――自分だけがコントロールしているように思える選択――によって自ら人生を築き上げているかのように感じる。
どの道を選べばいいか、他人に意見を聞くこともあるかもしれないが、自分がコントロールできないことについて助言を求めたりはしない(小惑星との次の壊滅的衝突のときに死を避ける方法について知ろうとして自己啓発書を買う人などいない)。
人生を変えるような大きな決定を下すときには、自分の進路を変更していることは本人にも明白そのものだ。
自分にぴったりの大学を選ぶ。キャリアを軌道に乗せるために、初めての仕事に精を出す。生涯を共にするのにふさわしい相手を選ぶ。そうした人生の大事を適切に処理することに専念すれば、万事うまくいく、と私たちは言われる。
どれでもいいから、やる気を掻(か)き立てるようなTEDの講演の動画を視聴するといい。あるいは、どれでもかまわないから自己啓発書を読むといい。するとたいてい、ほかならぬあなただけが自分の探し求めている解決策のカギなのだ、と教えられるだろう。
個人主義のレンズを通して見た人生
そのようなメッセージが人気を博しているのは、私たちのほとんどが個人主義のレンズを通して自分の人生を眺めるからだ。
人生の物語は、クラウドソーシングして他人に任せたりしない。自分が下す主要な決定が自分の歩む道を決める。つまり、私たちが自分の進む道筋をコントロールしているということだ。その道を理解するには、あくまで自らを崇め奉り、自力本願を貫けばいい。
とはいえ私たちはときおり、自分にはコントロールできないかたちで人生の道筋が誰か他人の人生の道筋と交錯するところを、束の間目にして当惑する。私たちはこうした瞬間を、運とか偶然の一致とか宿命とか呼ぶ。
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