「人生がどうなるかは自分次第」と考える人は、個人主義のレンズを通して自分の人生を眺め、妄想的な世界観を抱いている

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その一方で、それらを異常のカテゴリーに分類する。世の中が「正常」に機能しているときには、人生は予測可能できちんと秩序立った規則性を持っているように見え、その規則性はおおむね自分が導くことができる、と私たちは独り合点している。自分こそが自分自身の運命の支配者だ、と。

そして、自信に満ちたその確信に疑問を突きつけるように見える奇妙な偶然の一致や偶然の方向転換に直面したときにはいつも、そんな正常性の小休止は軽く受け流して先に進み、自分の未来を形作るような次の大きな決定を下す準備に取り掛かる。

このような思考スタイルはあまりにありふれていて当たり前なので、是非を問われることがない。しょせん、世の中とはそういうもの、というわけだ。

ところが、そこには1つだけ問題がある。それはデタラメなのだ。それこそが、私たちの時代を特徴づけるデタラメにほかならない。

それは、「個人主義の妄想」とでも呼べるかもしれない。私たちは、難破した人が水に漂う船の残骸(ざんがい)にしがみつくように、この妄想に執着している。

生死を分けたサッカーボール

だが、ときおり何かしら話が伝わってきて、自分は他のあらゆる人や物事から切り離された存在だとか、分離可能な存在だとか考えるのが、どれほど馬鹿げているかが明らかになる。

2022年の夏、ギリシアの沿岸でありきたりの悲劇が起こった。北マケドニア共和国から来たイヴァンという名の観光客が波にさらわれ、沖に流された。

友人たちが大急ぎで沿岸警備隊に知らせたが、捜索は徒労に終わった。イヴァンは海で行方不明とされ、亡くなったものと見なされた。

ところが18時間後、彼は発見された。奇跡的にも生きていた。ありえない話に思えた。

だが彼は、波に呑まれて溺れる寸前、彼方の水面に小さなサッカーボールが浮いているのが目に入った。そこで、最後の力を振り絞ってボールの所に泳ぎ着いた。そして、夜通しボールにすがりつき、翌日救助された。そのボールに命を救われたのだ。

イヴァンの生還の話がギリシアで報道されると、ある2児の母がハッとした。イヴァンがすがりついていたというボールに思い当たる節(ふし)があったからだ。

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