――そこから雑誌の世界へと戻られたのは?
40歳の時です。『CanCam』でお世話になっていた小学館から『美的』という美容雑誌を創刊することになったから参加しないかとお声がけいただいて。編集デスクという役職も初めてでしたが、ずっと美容は好きだったのでこれは願ってもないチャンスだと思いました。
――10年のブランクがあったのにお声がけがあったとは。
タイミングもよかったですし、『CanCam』時代にすごく真面目に記事を作っていた姿勢を買われたようです。それから、私は雑誌の仕事から離れていた間も、編集部の方々とゆるく繋がっていたから声をかけやすかったのかなと。
――『美的』は今でこそ、売り上げも1、2を争う人気の美容雑誌ですが、創刊当初は苦労もありましたか?
『美的』より先に美容雑誌がいくつか出版されていて、すでに人気を得ていたこともあって。この新しい雑誌が市場にどう受け入れられるのか、最初が手探り状態で、試行錯誤の連続でした。でも、「読者に寄り添った雑誌を作る」という方針が明確になってからは、どんな企画にも“美的ならでは”みたいなものが少しづつ出てきたのかなと思います。
――『美的』がブレイクしたキッカケのような企画はありますか?
創刊して1年くらいの時でしょうか。私の芸能関係の知人から歌手の松田聖子さんを『美的』の表紙にどうですかというお話をいただいて。当時は異例のことだったし、松田聖子さんと『美的』に親和性はあるのか?と思いつつ、上司に持ちかけたところ、GOサインが出て。何と、その号は早々に完売になったんです!
――覚えています。画期的だなと感じました。
大いに話題にもなったし、ああいう企画が受け入れられたことで、読者の方々に対する解像度も上がって、雑誌を作りやすくなった気がします。
最愛の存在を失って気づいたこと
――天野さんにとって、40代以降は大きな試練の時期だったとも聞きました。
40代から50代は、『美的』の仕事に邁進していた一方、プライベートではいろんなことが一気に押し寄せました。パートナーが病に倒れて、最期まで看取ったり。母親も脳梗塞になって、施設と自宅を行ったり来たりしていたので、そのサポートもありましたし。
自分の時間は全くなくて、体力的にも精神的にも追い詰められてギリギリなこともありました。
――どうやってご自身の心身を支えていらしたんですか?
当時のことは記憶も朧げですけど、誰にも弱音を吐けなかったです。特に主人を亡くした後は、孤独との闘いでした。よき友人や仕事仲間には恵まれていましたけど、やはりそれぞれ帰る場所がありますし。今思えば、仕事に支えられていたのかなと思います。
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