「高層ビルが全然ない…!」1960年代≪31mの高さ制限≫があった”東京・丸の内”の現在と似て非なる街並みをアナログ写真で振り返る

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10年後の1964(昭和39)年には、東京-新大阪間に東海道新幹線が開通。東京駅の新幹線ホームは八重洲側に新設され、八重洲口の存在感はより高まることになった。

その大丸前のタクシー乗り場には長蛇の列。1960年代の東京ではモータリゼーションが進み、タクシーを利用する人も増えたはずだ。この時期、八重洲側には地下駐車場と、それに続く八重洲の地下街も建設されている。

1960年代のタクシーに用いられていた車種は、トヨタクラウンの他、トヨペットコロナ、三菱コルトなど。現在から見ると、クラシックカーのような趣きを感じる車体だ。

戦後はオフィス街として発展

戦後の八重洲側は丸の内側と同様にオフィス街として発展。しかし界隈には庶民的な飲み屋や飲食店街も多く、銀座、日本橋のショッピング街にも徒歩圏で、丸の内側とは異なるキャラクターの街として親しまれてきた。

丸の内
(写真:1968年8月7日、東洋経済写真部撮影)
丸の内
(写真:1968年8月7日、東洋経済写真部撮影)

その1960年代の八重洲のビル屋上では、ビアガーデンが繁盛していた。

屋外で生ビールを飲めるビアガーデンは日本の夏の風物詩とも言えるが、ビル屋上で行われるようになったのは、東京では昭和20年代後半かららしい。

この当時のビアガーデンに付き物だったのは、提灯型の照明、金属パイプのいす、そして場を盛り上げる生バンド演奏だったと昭和のモーレツ会社員だった世代に聞いたことがある。

写真に写るお客には、サラリーマンだけでなく、当時OLならぬBG(ビジネス・ガール)と言われた女性の会社員も多い。

ビアガーデンは大流行し、その全盛期は東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年だったという。それには、この頃都心に大型のビルが建設されて、ビアガーデンが開店できるような場所が増えたことも影響しているだろう。また、その頃の一般家庭には冷房も普及していなかったため、屋上でちょっと涼みながらビールを飲んでいきたいという需要もあったらしい。

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