「高層ビルが全然ない…!」1960年代≪31mの高さ制限≫があった”東京・丸の内”の現在と似て非なる街並みをアナログ写真で振り返る

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大手町から丸の内方向(写真:1964年6月10日、東洋経済写真部撮影)

大手町側から丸の内方向を望んだ写真を見ると、戦後築のオフィスビルが並んでいる。

大手町が本格的にオフィス街化したのは戦後の昭和30年代。戦前この一帯は国の官庁街で、その国有地が払い下げられて民間のオフィスビルとなった。
その頃に建てられたビルも現在はほとんどが建て替わり、この写真の当時の建物のままであるのは、大手町ビル、新大手町ビルぐらい。

ほかのビルとは異なる個性的な外観で目立つ、写真左下、線路側のアーチ型の屋根の建物は、東京中央電信局。日本武道館や京都タワーなど曲線的なデザインを得意とする建築家・山田守の代表作として知られる1925(大正14)年築の建物だが、戦後のこの時期、まだ残っていたとは驚いた。しかしこの後1970年頃には解体されている。跡地に建てられた電電公社のビルは、現在はNTT関連の建物になっている。

新幹線開通で増した八重洲の存在感

丸の内
(写真:1968年8月7日、東洋経済写真部撮影)

1960年代の東京駅の八重洲口側に目を移すと、また、まったく別の駅前風景が展開している。タクシー乗り場の表示の後ろに小さく見えるのは「大丸」のマーク。

丸の内口に遅れること15年、東京駅に八重洲側の駅舎ができたのは1929(昭和4)年のこと。それも丸の内の壮麗な赤煉瓦建築と比べると、バラックのようなごく小規模のものだった。戦後、2代目八重洲駅舎が完成したが、不審火で焼失。そして本格的な駅舎建築として1952(昭和27)年に建てられたのが鉄道会館ビルで、1954(昭和29)年には関西から進出した大丸百貨店が入居した。

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