都民が驚愕「グラングリーン大阪」の“昔の姿”とは。府民の多くが懐かしむ?「貨物駅」時代はどんな様子だったか

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当時は、低湿地を埋めた「埋田」から転じて「梅田」と呼ばれていたような場所で、駅北側の「牛丸町」(現在のグランフロント大阪・北館周辺)などで、農耕用の牛が鍬を曳いて田畑を耕す、のんびりした光景が広がっていたという。 

明治時代の大阪駅周辺の発展は「淀川の治水」がネックとなった。当時の淀川は大阪駅の北西で3本の細い川に分かれており、琵琶湖・京都の増水を受け止めきれずに市内が冠水することもしばしば。特に1885(明治18)年の水害では、「駅近辺で深さ四尺(約1.21m)の浸水」に見舞われる有様だった。(建設省近畿地方建設局『淀川百年史』より) 

1909(明治42)年と現在の地図比較、貨物駅の用地をマーカーで表示(今昔マップより) 

淀川の治水工事が完了、水害の危険が激減した1910(明治43)年と前後して、梅田エリアには阪神電鉄(1906年)、大阪市電(1908年)、箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄。1910年)が大阪駅周辺に次々と到達、周辺の開発が本格化する。 

のちにグラングリーン大阪・南館が建設される一帯には、「金蘭会女学校」(現在の金蘭会高校)、「梅田高等女学校」(現在の大手前高校)、その北側には「府立北野中学校」(現在の北野高校)など数校が他地域から移転してきた。

大阪駅の北側、のちの梅田貨物駅は、明治末期・大正初期に「学校が連なる文教地区」として発展が始まったのだ。 

貨物駅は「学校を移転させてでも設置」する必要があった? 

梅田スカイビル前の貨物線を走行する特急列車。現在は地下化している(筆者撮影) 
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