都民が驚愕「グラングリーン大阪」の“昔の姿”とは。府民の多くが懐かしむ?「貨物駅」時代はどんな様子だったか

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コンテナ取り扱いが主流となって、一般人が足を運ぶ必要がなくなった今の貨物駅と違って、当時の貨物駅はまだ、誰もが足を運べる場所に機能を置く必要性があった。

またこの地は国道2号にも近く、梅田貨物駅は、大阪駅すぐの一等地にあったからこそ、重要な役割を果たすことができたのだ。 

こじれた貨物駅移転 跡地は「テレビ局」「サッカー場」になっていたかも? 

西梅田一番踏切にさしかかる特急列車。地下化により踏切も廃止された(筆者撮影) 
更地となった梅田貨物駅跡地。2013年撮影(筆者撮影) 

梅田貨物駅の土地売却が決定したのは、国鉄民営化でJR7社が誕生した1987(昭和62)年のこと。バブル経済による地価高騰で、公示地価が1坪1億円に達しようとしていた梅田エリアの土地を売却、25兆5000億円にものぼる旧・国鉄の債務返済に充てようとしたのだ。 

しかし、まともな事前協議もないまま売却が発表され、移転候補地として名前が挙がった吹田市・摂津市の怒りを買った。その後、移転交渉に約10年もの年月を費やすことになる。 

その間にも、貨物取扱量は減少していく……と思いきや、JR発足後の営業努力によって、民営化初年度(1987年)165万トンから、翌年に200万トン、その後もしばらく増え続ける。 

ただ、いずれなくなる梅田貨物駅に投資を行うわけにもいかず、コンテナ輸送を効率よく行える「E&S方式」(着発線荷役。側線ではなく本線で貨物を積み込めるため、大幅な時間短縮が可能)の導入もできない。 

運河も昭和30年代には役割を終え、ここで荷物を受け取る人も少なくなった。貨物駅はここにある必要がないどころか、1日約3000台ものトラック・クルマが駅に出入りするため、むしろ市街地に置かない方がいい存在に変わってしまったのだ。このあたりの「コンテナ導入による貨物駅の役割変化」は、全国で共通するだろう。 

梅田貨物駅では、2008年には「ねんきん特別便」4万5000通が入ったコンテナが駅構内で2カ月も放置されたことも。営業末期の頃には、この駅が都心のエアポケット化していた感は否めない。 

2014年の梅田貨物駅跡地。あっさり撤去された(筆者撮影) 

ただ、広さ24ヘクタールの貨物駅用地は、民間のデベロッパー(土地開発業者)には、宝の山に見えていただろう。この頃には貨物駅跡地をあてこんで「梅田メディアシティ建設」(在版テレビ局5局の拠点を集約)、「サッカースタジアム誘致」(2010年ワールドカップ誘致に失敗、頓挫)など、さまざまな構想が乱れ飛んだ。 

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