都民が驚愕「グラングリーン大阪」の“昔の姿”とは。府民の多くが懐かしむ?「貨物駅」時代はどんな様子だったか
そのなかで、大阪市や関西経済同友会が主張していた「緑地化」を実現するために、貨物駅用地をいったん「UR都市機構」が所有した上で、民間からプランを募り、建設を任せることに。この流れが、のちの「グラングリーン大阪」「うめきた公園」に繋がっていく。
開発はようやく動き始め、まず「先行開発地区」に指定された7ヘクタールがグランフロント大阪に変わる。残っていた区画も2013年3月の貨物駅廃止後に更地となり、2024年、2025年にグラングリーン大阪北館・南館が順次オープン。いまも、2027年の完成に向けて工事が続いている。
なお、1995年の阪神・淡路大震災で神戸方面への鉄路が被災・75日間も運休となった際には、梅田貨物駅が救援物資のトラック積み替え拠点として活用されており、これが貨物駅としての最後のフル稼働だったと言えるだろう。この期間中、多くの鉄道マンが不眠不休で梅田貨物駅を支えていたことを、忘れたくはないものだ。
地下道消滅・道路復活に沸く「グラングリーン西側地域」


「グラングリーン大阪」南館開業後も旧・梅田貨物駅の再開発は続き、分譲マンションなどが完成する2027年をもって、ようやく全体像が完成するという。そんな中、グランフロント・グラングリーン西隣の地域(北区大淀中・大淀南、福島区福島6丁目)でもっとも歓迎されているのが、90年ぶりの道路復活による「東西移動の不便解消」だ。
1928年に貨物駅が開業するまでは、大淀地区(現在の「梅田スカイビル」南側)から梅田の東側・茶屋町方面へ抜ける「梅北道路」があったものの、貨物駅の開業とともに廃止に。当時は「梅田東小学校」が茶屋町にあり、通学のために貨物駅を1kmも遠回りせざるを得ない大淀の子どものために、ほぼ同じルートで貨物駅の真下を移動できる「梅北地下道」が開通した。
しかし、この地下道はクルマ・バイクは通行できず、何度か改装されたものの、照明は薄暗く、水漏れもあり……入るのを躊躇する魔境のような地下道が、この地区の東西移動の妨げとなっていたのは間違いない。
なお筆者は地下道出口の西側にある中小企業に20年ほど勤務していたが、「目の前に梅田は見えているけど、遠い」という地域の特性上、勤め人・住民とも自転車の保有率が異様に高い。いま撤去が進んでいる梅田貨物線・地上区間の線路撤去とともに地上の道路で繋がる予定で、90余年ぶりの「梅北道路」復活によって、「東西分断」は完全に解消されるだろう。
グラングリーンの西側、大淀・福島地区はJR大阪駅から直線距離で1km内にもかかわらず、いまも低層階の雑居ビルと住居が混在する地域だ。しかし、その一角には雰囲気のいい定食屋やカフェ、料理評論家がお忍びで通う、何を食べてもうまい中華料理屋などもある。東西分断が解消された今、「グラングリーンの西側」にも足を運んでほしいものだ。
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