春章は、数多くの弟子をとったことでも知られている。
春章の知人である「高嵩月」(こうすうげつ)が著した『画師冠字類考』(えしかんじるいこう)には、春好・春英・春潮・春山・春湖・春徳・春林らの名が門下生として連ねられている。
北斎が弟子入り、将来性を感じる
安永7(1778)年に19歳の葛飾北斎が弟子入りしてくると、春章はその才能に将来性を感じていたらしい。「勝川春朗(かつかわ・しゅんろう)」の雅号で『吉原細見』の挿絵を任せている。これが北斎の絵師デビューとなった。

春章がいつ亡くなったかは諸説あり定かではないが、師を失うと北斎は、勝川派から離脱。己の道を切り拓くことになる。冒頭に述べたように、最古参の兄弟子だった春好から理不尽な仕打ちを受けたことも、勝川派をあとにした理由の一つだろう。
だが、2021年に妓楼の遊女ら6人が描かれた『青楼美人繁昌図(せいろうびじんはんじょうず)』という肉筆画が発見される。
北斎が勝川派の門人らと合作したものだが、文化7(1810)年前後の制作と推定されている。北斎が50歳頃の作品ということになる。その頃にはもうわだかまりがなくなっていたのだろうか。因縁の兄弟子である春好も寄せ書きをしている。
文化11(1814)年には、北斎は画集『北斎漫画』を刊行。相撲の決まり手の数々が描かれていることから、春章の影響を受けたと考えられている。
また、春章による役者絵にインスパイアされたのが、浮世絵師の写楽(しゃらく)だ。首から上を大きく書いた独自の「大首絵」を考案して、浮世絵界に旋風を巻き起こすこととなった。
オリジナリティの高い作品を自身でも残しながら、門人を多く育てて、葛飾北斎というスーパースターも輩出した勝川春章。大河ドラマ「べらぼう」をきっかけに、その業績が改めて知られることになりそうだ。
【参考文献】
飯島虚心著、鈴木重三校注『葛飾北斎伝』岩波文庫
永田生慈監修『もっと知りたい葛飾北斎─生涯と作品』東京美術
神谷勝広「勝川春章伝記少考」『浮世絵芸術』第173巻、国際浮世絵学会
松木寛『新版 蔦屋重三郎 江戸芸術の演出者』(講談社学術文庫)
鈴木俊幸『蔦屋重三郎』 (平凡社新書)
鈴木俊幸監修『蔦屋重三郎 時代を変えた江戸の本屋』(平凡社)
倉本初夫『探訪・蔦屋重三郎 天明文化をリードした出版人』(れんが書房新社)
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