「いつ死んでもいい」89歳・ヘビースモーカー元女将の”人を見る目”は衰え知らずだった。老人ホーム職員が出会った個性的な入居者との思い出

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「おかげで声は太なるし、腹は据わるし、色気なんかなかったど」

そんな彼女の向かい側に座っている永山文江さんは、伊藤さんに一目置いていた。というより警戒しておられた。

潔癖症の永山さんは独り言をぶつぶつ言う癖があるのだが、あのときも長い間ぶつぶつ言っていた。何を言っているかは聞きとれなかったが、わたしも気になっていたのだった。

テレビを見ていた伊藤さんがちらりと永山さんを見た。

目の前でぶつぶつやられて、彼女はイライラしていたのだった。

ついに伊藤さんがひと言いった。「いいかげんにせんや」

その口調の厳しさに永山さんがびっくりして背筋を伸ばした。見ていたわたしも驚いてしまった。が、なにかさっぱりした気持ちよさがあった。永山さんも背筋を伸ばしたあとは、けろりとしておられた。独り言は止まってしまった。

伊藤さんだから言える冗談

伊藤さんは89歳。

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年齢には勝てない。

足腰が弱くなり車椅子生活だった。

また長年のヘビースモークで絶えず咳きこまれ痰を出しておられた。「タバコは1日3本。あの施設長は女子んくせ厳しかな」

2階へのエレベーターのなかで伊藤さんはときどきそんなことを言った。

「先生の指示でな。伊藤さんのためにな」

「ばあさんじゃが、いつでん、け死んでよかっじゃが。もうたくさんいい思いをした。もう疲れた」

そういう彼女の耳元にちょっと口を寄せて、「あとで、首を、絞めてやろか」と小声に言うと、伊藤さんは声を出して笑うのだった。伊藤さんだから言える冗談だった。

他の入居者には言えない。まっして施設長の吉永さんに聞かれるわけにはいかない。聞かれたら、「やめてください。そんな冗談は」と厳しい顔をされただろう。

「はんな駄目を。ケンさんならよか」

顔に笑いを残したまま伊藤さんは言った。

「誰な? 隣のおじさんや」

「映画俳優よ、よか男がおるがな」

「俺よっか、よか男や」

「まこて、はんな、面白とかこと言うな」伊藤さんはまた笑った。

その笑い声を聞くとこちらも気持ちが軽くなる。介護していることが苦にならなくなる。

彼女の居室に入り、明かりをつけて車椅子をベッドに寄せてあげる。

伊藤さんは自力でベッドに乗り移り、「今日も一日、終わった」と言う。北側のひんやりした部屋に安堵したものが漂う。

川島 徹 作家

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かわしま とおる / Toru Kawashima

1950年、鹿児島生まれ。大学卒業後、外資系企業に就職。40代半ばで退職し、作家になるための文章修業をする。50歳で帰郷。電気メーターの検針員のアルバイトをする。勤続10年でクビになり、老人ホームの夜勤の仕事を始める。著書に『メーター検針員テゲテゲ日記』(三五館シンシャ)がある。

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