「いつ死んでもいい」89歳・ヘビースモーカー元女将の”人を見る目”は衰え知らずだった。老人ホーム職員が出会った個性的な入居者との思い出
それを振りはらうように、「なかに入ろうか」と声をかけた。
そして車椅子のブレーキを外した。
伊藤さんは火の消えたタバコを吸い殻入れにいれ、「ちょっと寒むなった」と言った。
小人たちは一瞬にして消えたようだった。
伊藤さんは少し疲れたようないつもの顔に戻っていた。
わたしは戸惑ったままだった。
奇妙な感じが残されていた。
伊藤さんを2階の居室に誘導してから尋ねてみた。
「さっきの子どもはどんな服を着ておったや?」
伊藤さんは黙っていた。
しばらくしてから、「なんの話はないな」と言った。
伊藤さんもレビー小体型認知症だった。
だから幻視が現れるのだった。幻視の小人はその後も何回も出てきた。そしていつも「ほらほら、あそこに人が居る」と同じ言葉を繰り返すのだった。
夜勤のわたしが知っているのは、夕食後、タバコを吸っているときだった。施設長の吉永清美さんに尋ねたら、「タバコを吸っているときでしょう、いつも同じことを言うのよ」と言った。
もしかするとタバコの刺激が関係しているのかもしれなかったが、素人のわたしたちには判断はできなかった。
伊藤さんには、小人の幻視以外奇妙な発言や行動はなかった。
人を見る目、扱い方はお手のもの
そればかりか自分のことをよくわきまえ、また他の入居者のことも静かに見ておられた。それもそのはずである。薩摩大口の駅前で一杯飲み屋の女将だった人である。酔っぱらい相手の商売で、人を見る目、扱い方はお手のものだったのだ。「昔は土方が多かったからな。酔っぱらって、よくケンカをすっとな」
「店んなかでや」
伊藤さんと話していると鹿児島弁になってしまう。
「あたいの目の前でを。あんころは、みんな気性が荒かったでな。イレズミはしといしな、よくケンカすっと」
「どげんすっとな」
「怒鳴るのを、警察を呼んどと。まぁ、たいていは静かになったな。でも本当に警察を呼んだぞ、何回も。交番が近くやったから、いっき来てくいやっと」
「そうか」
「一度、包丁を投げようとしたことがあったど」
「包丁ッ」
「そしたらふたいともひっ魂がってな」
伊藤さんは笑った。
「いま思い出すと、おかしか。たまたま手にしておったとを。ほんとに投ぐいもんや」
伊藤さんの顔が生き生きしていた。
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