料理の経験はあったので、スープの作り方は見れば覚えられる。大山さんは味作りよりも店の運営を身につけるべきだと感じた。いくら美味しいラーメンが作れても、たくさんのお客さんを呼んで利益を出さないとお店を続けていけないからだ。「近藤家」は忙しい店だったので、とにかく必死でお店をガンガン回していった。
「長くやってきた洋食に比べ、ラーメンは寸胴一本で勝負をかけるところが楽しかったです。メニュー数が少なく、作業としては洋食に比べて単純なのですが、一つのものに集中できるというのが自分の性格にも合っていたんです。直感で『これは自分に向いているな』と思いました。
また、『近藤家』は場所が良くないのにとにかくお客さんが入っていて。『これなら実家の場所でもやっていけるかもな』と思ったんです」(大山さん)
その頃、父がリウマチを患い、出前ができなくなり、店の存続が厳しくなってきた。このままでは続けられないという話が出てきたので、「近藤家」に退職を申し出て、独立に向けて準備を始める。大山さんは実家をラーメン専門店に改装しようと考えていた。
「親には『ラーメンだけで大丈夫なのか?』『出前しなくて大丈夫か?』『餃子はやらないのか?』と何度も心配されました。ですが、当時家系ラーメンは都内に数軒しかなかったですし、やっていけると思ったんですよね。今思えば少しテングになっていた気がします」(大山さん)
オープンから3年間はつねに赤字だった
こうして1997年3月、「ラーメン 大山家」はオープンした。メニューは家系の醤油の小・中・大のみだった。中休みなしで深夜2時まで営業し、両親とパートさんに手伝ってもらいながら営業した。中休みを作らないのは、「店はできるだけ閉めないように」という父のこだわりだった。
しかし、インターネットもあまりない頃で、口コミも広がらず、スタートダッシュが切れなかった。なんとオープンから3年間はつねに赤字だった。中華料理屋時代の常連客は「口に合わない」と1回来てはもう来なくなった。
親からは「やっていけるのか?」「閉めたほうがいいんじゃないか?」と言われたが、実家の土地で固定費が少ないので何とか続けていた。
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