授業料を無償化すると教育が滅ぶ懸念がある 教育がタダになったらどういうことになるのか

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公立高校の実質的な無償化などで高校授業料の無償化について、与党と日本維新の会の距離は縮まっているとされる。授業料や教育をどう考えればいいのか(写真:つのだよしお/アフロ)

高校の授業料を無償化すれば、高校教育は滅ぶ。大学授業料無償化も、大学教育を滅ぼす。高校と大学は栄えるが、その教育は滅ぶ。

消費財やサービスでも、価値と価格は乖離する

価格とは価値である。本来は。しかし、現実の金融市場で、株価が企業価値から離れているように、消費財やサービスも同様に、価値と価格は乖離する。

「ダイヤモンドと水」の、価値のパラドックスの例は有名(水のほうが日常生活では欠かせないのに、価格はダイヤモンドのほうが高いという矛盾)だが、価値には「使用価値」「市場価値」「資産価値」の3種類がある。

後者の2つは価格になることが多いが、そうならないこともあり、資産価値はおおむね価格とは乖離する。なぜなら、人々は、必需品の世界からぜいたく品そして余暇品、レジャー品、エンタメ(エンターテイメント)品と消費の世界を拡大し、自分が欲するモノの価値を自分ではわからなくなってしまっているからだ。

自分にとって、「自分は、本当は何が欲しいのか、何を手に入れれば幸せになるか」も、混乱してわからない。結局、売れ筋ランキングやサイトやSNSのレコメンドに依存することになる。広告で消費者からむしり取って巨大になったテックジャイアントとAIに、消費生活は支配されているのである。さらには、自分にとって価値あるものとは何か、自分の人生にとって何がいちばん重要か、何をしたらよいか、混乱して自分探しをして、さらに混乱して疲れ果てる。

現代においては、この局面でも、われわれの人生は資産市場と同一化されてしまっている。市場価値とはおおむね価格のことだが、それは買い手が買う値段である。他人の評価がそのモノの価値となる。資産価値とは、将来の市場価値であるが、これは将来の他人が買う値段であり、その他人にとっての資産価値、つまりさらなる将来の他人が買う価格である。

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