本当になんのための無償化なのか、まったくわからない。一部の政党の選挙対策にすぎないが、しかし、それを国民が支持している以上、「教育敗戦社会」なのだろう。
さて、このような世論に絶望しながらも、あるべき教育政策を提言したい。具体的には、次回以降にするが、経済学者として、経済学と経済学者たちの傲慢さをあらかじめ謝罪しておきたい。
教育議論の迷走の原因の1つは、あるべき教育の姿が定まっていないからである。「一億総教育評論家」などとかつて言われたように、親として、教育を受けてきた側として、それぞれ意見があり、あまりに多様である。価値がわからなくなって、見える価格が価値の代わりになってしまったように、ここでも、価格がすべてを解決した(滅茶苦茶に破壊した)。
金を稼ぐための教育は職業訓練である
どのような教育が、価値があるのか。儲かる教育である。どこに行けば儲かる教育が受けられるか。教育の効果は?エビデンスベースである。
では、エビデンスとは何か。どれだけテストのスコアが上がったか。これだけでもテストスコア偏重の研究、政策提言になるという批判があるが、アメリカの学問、政策議論が世界を席巻し、経済学が社会科学を支配している(と少なくとも経済学者たちは思い込んでいる)現在、教育の効果とは、稼ぐ力の増加である。
有名なマシュマロ実験というのがある。マシュマロを食べるのを我慢できた児童は、人生で成功するというものなのだが、成功するとは、主に生涯所得のことであり、その次に学歴、職歴のことである。
教育学が、いつの間にか経済になってしまった。教育学が、教育の経済学、人的資本の経済学になってしまったことが、教育議論を堕落させたのである。
それは、アメリカや経済学者の世界から、日本の社会にも広がり、良い大学教育とは、日本の大企業にとって役に立つ社員を生み出す教育であり、労働生産性を高める教育であり、ビックテック企業を起業する若者を輩出することとなってしまっている。
つまり、金(カネ)を稼ぐための教育である。それは、教育ではない。職業訓練である。経済的に豊かになれる人間を育てることが、いまや教育の目的であることは当然のようになってしまっている。180度逆だ。教育とは、必ずしも経済的に豊かとはいえなくとも、充実した人生を送れるような人間を育てることであり、経済的、社会的窮地に陥っても、自分でなんとか解決できる力をつけることが教育なのだ。
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