さて、このような資産市場の価格と価値の倒錯が、幅広く社会全体に広がっているのが、現代である。教育についても、もちろん同様である。
「タダより高いものはない」理由
タダより高いものはない。人生の大事な時間を費やし、最も大事な素養を身に着けるのに、タダだから行く人がいるだろうか?
タダだから行く人は、教育は、その人にとってどっちでもいいがコスパがいいなら行くというものなのである。
「そんなことはない、値段は関係ない、でも無料のほうが助かる、低所得者にとっては非常に助かる」、という声が聞こえてきそうである。
しかし、それなら、電気代、水道代、コメ代、全部無料にすべきではないか? 教育は重要だが、死んでしまえば意味はない。家はどうだ? 衣食住。必需品であるにもかかわらず、人生の所得の大半をこれにぶち込む。
なぜなら、家は大事だからだ。
価格は、そのモノ、サービスの重要性を表す。安いほうへとなびくのは、それは命に次に大事ではなく、コスパが重要であり、それがさまざまな消費したいものの1つにすぎないからである。
そして、価値と価格の倒錯は、さまざまなサービスがあふれ、混乱している消費者、生活者を、価格で価値を判断させるように行動させる。教育には、所得の大部分をつぎ込んでもいい、という世界から、教育は当然タダだよね、という世界になると、無意識に教育の価値の認識がおろそかになっていく。授業料を無償にすることで、学校教育がいまいちでも、まあタダだから仕方ない、金持ちはもっとお金をかけて特別な塾に行っている、という価値観が普通になるだろう。
いや、「そんなことはすでにわかりきっている」、と言うだろう。学校の授業より、塾が役に立つ。学校には送り迎えしないのに、塾の終わる時間には親御さんたちが群れを成して迎えに来ている。そういうことだ。
私だって、そのくらい知っている。だから、授業料無償化という議論が起きる時点で、日本社会では、学校教育の価値はそれほど高く認められていないのだ。いかなければいけないけど、コストは抑えたいということだ。
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