「ほっかほっか亭」成功掴んだ創業者の驚く選択 「先が見えない生き方のほうがはるかに楽しい」

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今や大人気回転寿司チェーン店として知られる「くら寿司」。田中が業界への参入を決意したときの言葉がこれだ。

「保守的な寿司業界なればこそ、ビジネスチャンスは大きいのではないだろうか」

保守的な体質に直面すると、嘆いたり、愚痴ったりしがちだが、それではチャンスを捨てているようなもの。

ほっかほっか亭創業者が次に目を向けた物

・「僕は先が見えない生き方のほうがはるかに楽しい」(栗原幹雄) 

栗原幹雄は1951年、埼玉県生まれ。日本大学生産工学部建築工学科卒業後に、積水ハウスへ入社した。

ボーナスは年12カ月も支給され、順風満帆そのものだったが、義兄の誘いに乗って、弁当屋ビジネスをスタートさせるために、27歳のときに退社。恵まれた生活を捨ててまでの選択が、「ほっかほっか亭」の創業へとつながっていった。

「ほっかほっか亭」はわずか4年で1000店を突破。すると、またもや栗原は新たな分野へと目を向けるようになる。それが、ハンバーガー屋である。それまで全く作ったこともないにもかかわらず、栗原は渋谷区富ヶ谷で「フレッシュネスバーガー」の第1号店をオープンさせる。2年後には、ほっかほっか亭から退社して、ハンバーガー業に専念している。

新鮮な素材にこだわり、バンズには栗かぼちゃを混ぜて味をつけるという新たな試みに挑戦。独自のこだわりを打ち出すことで、「大人がくつろげるバーガーカフェ」として徐々に認知されていき、2024年の現在では約150店舗が展開されている。

マンネリを嫌い、絶えず人生に変化を起こした栗原が放った言葉がこれだ。

「僕は先が見えない生き方のほうがはるかに楽しい」

安定か、冒険かの二択では決断も難しいが、今はもはや「安定志向」が成立しにくくなっている。どの道をたどっても不安定ならば、思い切った行動に出やすいのではないだろうか。カオスな時代だからこそ、楽しめることがある。

・「商品は売れなかったが、乳酸菌の素晴らしさが損なわれたわけではない」(三島海雲)

三島海雲は1878年、大阪府に生まれたカルピス社の創業者。英語教師だった三島は、清国へ渡って25歳のときに雑貨貿易や内モンゴルでの馬の買い付けなどを行うものの、辛亥革命の影響で事業は頓挫。38歳で帰国した三島を待っていたのは、入院中の妻と3人の子ども、そして無職の生活だった。

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