「渡来人」は意図的につくられた概念といえるワケ 日本古代の文献で用いられた言葉ではない
つまり、聖徳太子、蘇我馬子(そがのうまこ)、藤原不比等(ふじわらのふひと)ら古代日本の政治家が、「帰化人」や「渡来人」の言葉を口にすることはなかった。
渡来系と称した秦河勝(はたの かわかつ)ら古代の豪族でも、「帰化人」や「渡来人」と呼ばれたら、不快に感じたであろう。
「帰化人」も「渡来人」も“政治的意図”からつくられた
現在の日本古代史の研究者や、古代史好きの一般読者の多くは「渡来人」という言葉から、次のような人びとを想像するであろう。
「大陸の高度な文化を身に付けた、日本文化の発展に大きく貢献した人びと」
この評価は、決して誤りではない。これに対して「帰化人」という言葉を聞いた、戦前の人びとは、こう思った。
「ヤマト政権で名門の豪族、貴族たちより低く扱われた移住者」
こちらも、ある程度の事実を踏まえてはいる。しかし「帰化人」と一まとめにされると、かれらが、蘇我氏、物部(もののべ)氏といった古くからの有力豪族の下で働いた技術者であるかのように評価されてしまう。
「帰化」とは、『日本書紀』に出てくる言葉である。この他に、「来帰(らいき)」、「投化(とうか)」、「化来(けらい)」という漢語も、「帰化」と同じ意味に用いられている。
それらの漢語は、やまと言葉では「おのずからもうく」、もしくはそれを省略した「もうく」と訓(よ)まれていた。大王(おおきみ)(天皇)に仕えるために「みずから参り来た」のが「帰化人」だというのである。
明治時代後半以後の日本は、朝鮮半島から中国東北地方(満州)へと勢力を伸ばしていった。この動きのなかで、政府に近い立場をとる歴史研究者の間に「日鮮(朝)同祖論」というものが広がっていった。それは、日本と朝鮮半島の文化はもともと言語、宗教、習俗などを共有する同祖の関係にあると主張したものである。
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