「渡来人」は意図的につくられた概念といえるワケ 日本古代の文献で用いられた言葉ではない

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

これに次いで古墳時代に、東アジア祖先の人びとの新たな移住の波が来る。しかしかれらだけが大陸文化を日本列島に伝えたのではない。縄文系や弥生系の日本列島の豪族も古墳時代に意欲的に朝鮮半島の文化を持ち帰っていた。このあと「渡来人」と呼ばれた者の実態や、古墳時代の日本における大陸文化のあり方について、ていねいに考えていくことにしよう。

(画像:『渡来人とは何者か』より)

「帰化人」と呼ばれていた「渡来人」

日本古代史の研究者の多くは、「五世紀末から七世紀末にいたる時期の日本の文化は、『渡来人』と呼ばれる人びとのはたらきによって、大きく発展した」と考えてきた。

この期間は、時代の区分では中期末以後の古墳時代と飛鳥(あすか)時代(550〜709年ごろ)に相当する。

これから説明するように、「渡来人」と呼ばれる人びとの実態は複雑かつ、きわめてわかりにくい。それでも、これまでに多くの日本古代史の研究者が、「渡来人」を扱った研究を発表してきた。「渡来人」についてふれなければ、ヤマト政権の正確な歴史を記せないとされたからである。

しかし私は、「渡来人」という表現は適切なものではないと考えている。厳密にいえば、それは「渡来系豪族」とすべきものであろう。

ヤマト政権で活躍した「渡来系豪族」は、そう多くはない。東漢(やまとのあや)氏、秦(はた)氏、今来漢人(いまきのあやひと)とされたいくつかの豪族と、それらに関連した限られた数の豪族が見られるだけだ。ヤマト政権では、葛城(かつらぎ)氏、物部(もののべ)氏などの古くから大和とその周辺(畿内)にいた豪族が主導権をもっていた。

古墳時代から飛鳥時代にかけての大陸の先進文化の輸入の担い手の多くは、そのような旧来の豪族であったと私は考えている。現在の日本古代史の研究者が「渡来人」と名付ける人びとは、戦前には「帰化人(きかじん)」と記されてきた。しかし「渡来人」も「帰化人」も、日本古代史の研究者が新たにつくった言葉であって、日本古代の文献で用いられたものではない。

次ページはこちら
関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事