「渡来人」は意図的につくられた概念といえるワケ 日本古代の文献で用いられた言葉ではない
そして7世紀末に天武天皇のもとで中央集権がなされ、天皇号と「日本」の国号が使われ始めた。このあたりで、ようやく「古代の日本人」といったまとまりが明らかになった。
それ以前の日本列島の社会や住民の考えは、世界史のなかで見てきわめて特殊なものであった。
ヨーロッパ、中近東などでは、古い時代に多くの排他的な民族集団がつくられてきた。そして民族間の勢力争いがさかんに行なわれた。そのような争いのあとで、勝者が敗者を虐殺したり、奴隷として従えた場合も少なくない。
ところが縄文人は、新たな移住者を仲間として扱い、平和な形で自分たちの社会に取り込んだ。
かれらが、新参者の移住者も「自分たちと同じ尊い精霊を宿した(善良な魂をもつ)人間だ」と考えたためだ。精霊崇拝をとる者は、あらゆる人間も、あらゆる動植物も善良でかけがえのない存在だと信じていた。そのため、前に記したように弥生時代に多人数の北東アジア祖先の人びとが日本列島に迎えられた。次いで古墳時代に、東アジア祖先の者たちが日本列島の住民に加わることになった。
多くの盆地世界の集合であった日本
日本列島には豊かな自然があり、河川の水も豊富である。そのために古代の日本に土地争いは起こらず、多様な人間を受け入れる社会がつくられたと考えることもできる。また精霊崇拝をとる縄文人の流れを引く日本列島の住民が、生命を重んじ無益な争いを好まなかったともいえる。
周囲を海に囲まれた島国である日本列島の大部分は、山地や微高地から成っている。そのため日本には、山に囲まれた盆地や、三方を山、もう一方を海で隔てられた小平野が多く見られた。
そのため近代以前の日本に、「盆地世界」とでも呼ぶべき閉鎖的な地域が多くつくられた。一つの盆地が古代豪族や中世の有力な武士、江戸時代の藩の領域になったところも少なくない。
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