「渡来人」は意図的につくられた概念といえるワケ 日本古代の文献で用いられた言葉ではない

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

縄文時代には、一つの盆地に人口100人から200人程度の集落がいくつかつくられた。そして個々の集落で、構成員の多くが何らかの血縁関係でつながる「村社会」ができた。

弥生時代に水稲耕作が広まったあとも、日本の社会は、「村社会」の集合体であった。一つの盆地や海岸沿いの小平野の草木が繁った原野に、ぽつりぽつりと人間が住む集落が見られたのだ。

土地を大地の神の持ち物とした古代人

古代の日本では、個々の集落の周囲にいくらでも土地があった。人手があれば、思いのままに原野を開墾(かいこん)して水田にできる。そのような時代に、こういった考えができた。

「集落の周囲の土地は、村社会の者が祀る大地の神の持ち物だ」

人々が祀る土地の守り神は、古代に「国魂(くにたま)」と呼ばれた。現代でもさかんに祀られている「顕国玉(魂)神(うつしくにたまのかみ)」の別名をもつ大国主命(おおくにぬしのみこと)は、国魂信仰を引く神である。土地を「大地の神の持ち物」と考えていた時代には、働き手となる人間がたいそう貴重であった。

だから日本各地の弥生時代の集落は、大陸からの移住者を歓迎したと考えられる。弥生時代前期(紀元前八世紀~前二世紀)の一つの集落の人口は、200~300人程度だと見られる。そして前に記したように弥生時代の移住者の多くは、一家族から二、三家族単位で海を渡ってきたらしい。

200人の集落に、十数人程度の移住者が加わっても、大きな対立は起こらなかっただろう。一つの集落の人口が三百数十人ほどに増えたときには、一つの集落が二つに分かれたと考えてよい。

弥生時代中期末にあたる紀元前二世紀末ごろから各地に、小国が出現した。一つの盆地社会の全体、もしくは二分の一か三分の一の集落を束ねる有力な首長が出現したのである。

次ページはこちら
関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事