「渡来人」は意図的につくられた概念といえるワケ 日本古代の文献で用いられた言葉ではない
日本列島では、12万年前ごろから、旧石器時代の遺跡が見られた。しかし3万8000年前ごろまでの旧石器時代の遺跡は、きわめて少ない。ホアビニアン人の集団の移住をきっかけに、日本列島の人口は急速に増加した。そして旧石器時代後期という新たな時代が訪れた。
ホアビニアン人の流れを引く人びとは、しだいに人口を増やして北上し、沖縄から日本列島全体に広がった。そして旧石器時代前期、中期から日本列島にいた新人(ホモサピエンス)をも仲間に取り込み、縄文人になっていったのであろう。
このような縄文人が、弥生時代開始期以後、長期にわたって新参者を快く受け入れたのであろう。
弥生時代の移住者と古墳時代の文化
2万年前ごろに古モンゴロイド(原アジア人)から進化した新モンゴロイド(中国人系民族)の集団は、まず黄河流域を目指して大挙して南下したらしい。
そのためシベリア北東部から遼東半島のあたりにかけての地域に、古モンゴロイドの諸部族が残されることになった。
かれらのなかには朝鮮半島南端まで南下した部族もいたが、そのなかの一部は朝鮮半島南端で縄文系の人びとと混ざり合った。7000年前ごろから九州などの縄文人が、朝鮮半島南端と盛んに交易するようになったためである。このころ、かなりの数の縄文人が、朝鮮半島南端に移住して集落を営むようになったらしい。
中国人が黄河流域で独自の文明を発展させるなかで、中国人の人口増加が目立つようになっていった。そのため約3万年前ごろから、多くの中国人が遼東半島から朝鮮半島北部、中部にかけての地域に移住してきた。
そのため中国人に追われる形で、朝鮮半島南端の人びとが、日本列島にやって来たのである。かれらは水稲耕作をふまえた弥生文化をもっていたが、弥生時代初期の遺跡からは縄文風の出土品も多く出てくる。
北東アジア祖先の移住者が、縄文系の住民と対立せずに縄文文化を受け入れたありさまがわかる。
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