蔦屋重三郎が書店開業!その裏で売れまくった本 恋川春町の「金々先生」いったいどんな作品?
前述したように「吉原細見」は、鱗形屋の独占販売。鱗形屋の系列に入っていたからといって、駆け出しの出版人である重三郎が、簡単に、その牙城を突き崩せるとは思えません。そこには何か原因があったと考えられます。そのことを見ていく前に、まずは、鱗形屋の動向をつかんでおく必要があるでしょう。
重三郎が初めて「吉原細見」を出版した安永4年(1775)、鱗形屋孫兵衛は『金々先生栄花夢』という書籍(黄表紙と呼ばれる、挿絵入りの読み物)を刊行します。
この作者は、恋川春町(1744〜1789)という人物。「恋川春町」というのは雅号(風雅・風流の考えから、実名以外につける名。今風に言うとペンネームか)であり、本名は倉橋格と言いました。
武士だった恋川春町
春町は、作家が本業だったわけではありません。紀伊田辺藩士・桑島九蔵の次男として生まれたことからもわかるように、武士だったのです。九蔵の子として生を受けた春町ですが、伯父・倉橋勝正の養子となります。勝正は、駿河国小島藩(藩主は滝脇松平家。1万石の小藩)に仕える身でした。よって、春町も小島藩に仕えることになるのです。
小島藩士として、江戸・小石川春日町の藩邸に住んだ春町。「恋川春町」という雅号は「小石川春日町」と、江戸時代中期を代表する浮世絵師・勝川春章の名にちなむと言われています。
留守居役・加判などの要職を歴任した春町ですが、彼の活躍はそれのみにとどまりませんでした。
浮世絵師を志し、町絵師・鳥山石燕(1712〜1788)に浮世絵を学び、安永2年(1773)には挿絵を春町が担当した洒落本(江戸時代の小説の一種。遊里を題材にした短編)『当世風俗通』が刊行されました。
そして、その2年後(1775年)に、先に述べた『金々先生栄花夢』を鱗形屋から出版するのです。
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