「ジミー・ペイジ」になりきり続けた彼の凄い半生 本人とも対面が実現!ジミー桜井の生き方
高校を卒業してすぐ、僕は東京の呉服問屋に就職したんです。そのときは仕事をしながら音楽をやっていけばいいやと思ったのですが、そんなに甘いものではなかった。
まったく音楽ができない日々が続いていたのですが、高校時代のバンド仲間がまた一緒に音楽をやろうというので一度、仕事を辞めて郷里に戻りました。
そこで音楽を再度はじめるわけですが、田舎での活動にも限界を感じ、もう一度上京を決意して、今度は楽器業界で働くことになりました。楽器業界というのは音楽業界と直結しているので、それがよかったですね。
会社の社長は現役のミュージシャンなんですが、僕の音楽活動にも理解を示してくれて、諸手を挙げて応援してくれた。もちろん仕事はしっかりとしてましたけどね(笑)。
脱サラしてアメリカに渡る
――著書を拝見すると、ジミー・ペイジさんが愛用していたトランスパフォーマンス社のオートチューニングシステムを搭載したレス・ポール・クラシックというギターの日本の販売権を得たのはジミーさんの功績だったとありました。確かにお金のためという側面はあったと思いますが、実際の仕事に対しても、片手間の仕事はしてこなかったとも聞いています。
やはり経済的に自分の生活をキープできなければ、バンドも健全にできないというのが僕の信条でしたから。
それと楽器の業界ということで、レッド・ツェッペリンを演奏するために必要な機材を探しやすかったということもあります。出張に行った取引先の楽器店で探していた楽器を見つけて買ってきたこともありましたし(笑)。本当に皆さんにお世話になりましたし、前の会社の社長の理解と応援がなければ、今の僕はないと言ってもいいと思います。
――ジミーさんがアメリカのトリビュートバンド、レッド・ツェッパゲインに誘われ、渡米したのは50歳のときでした。脱サラしてアメリカに行く、という決断はすんなりといったのでしょうか?
僕はそういうところが不甲斐なくて。なかなか外に出られないんです。そもそも英語もできないですし。食事はどうする?住むところはどうする? といったいろいろな心配事もあるわけです。日本でもまだ十分に活動できていないのにアメリカでできるのか、ということもありました。
でも妻から、そんなチャンスがあるミュージシャンがどれだけいるのか。向こうで活動したいと思っても、ビザを取るのがどれだけ大変か。ビザを申請して演奏するステージまで用意されているというのに、チャレンジしないでどうするの?と言われました。
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