誰が本当の夫?「清少納言の夫」のさまざまな説 夫の1人と言われている橘則光には物騒な話も
『拾遺和歌集』には「元輔が婿になりてあしたに」との詞書とともに「ときのまも心は空になるものをいかですぐしし昔なるらむ」(わずかな間でさえ 逢えないと心は落ち着かなくなるもの どうやってこれまで耐えてきたのかと思います)との歌が収載されています。
元輔というのは、清少納言の父・清原元輔のことです。実方は、元輔の婿となった翌朝にこの歌を詠んだとされています(元輔は、清原元輔ではなく、藤原元輔ではないかという説もあります)。
また『実方集』には実方と清少納言の交流が記されています。それは「清少納言といって元輔の娘が宮中に仕えているのを、何とはなしに心惹かれて親しくつきあい、人には知らせず絶えず通っていたが、どんな折にだったか、長い間、訪問しないことがあった。さすがにそれなりの口喧嘩などしてしまって、女の方から寄り添ってきて忘れないでねと言ったのに、返事はしないで帰ってしまった」というものでした。
こうした記述から、清少納言と実方は、夫婦関係にはなく、恋人だったのではと考える人もいます。
則光が最初の夫、棟世が次の夫の説
橘則光も、清少納言の夫と目されている人物です。則光も土佐守や陸奥守などを歴任した貴族でした。
学者によっては、則光が清少納言の最初の夫、藤原棟世が次の夫ではないかと考える人もいます。また則光と清少納言の間には、則長・季通(季通の母は清少納言ではないとの説もあり)という息子がいたとされています(娘も産んだのではないかと言われています)。棟世との間には、一男一女(重通と小馬命婦)がいたとも言われています。
最初の夫とされている則光とは、清少納言が16歳か17歳の頃に結婚したのではないかとされています。
その則光ですが『今昔物語』(巻23)には物騒な話が掲載されているのです。それは「陸奥前司・橘則光、人を切り殺す語」というものです。
それによると、則光は武士の出身ではなかったものの、心が太く、思慮深く、体も強かったとのことでした。見た目もよかったので、人々から一目置かれていました。
そんな則光がまだ若かった頃のことです。一条天皇の御代に、彼は衛府の蔵人として勤めていました。
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