「背中の腫物が乳首や腕にまで広がり、その毒が腹中に入ったのだろう。震えているのは、頸が思う位置に定まらないからである」
(背の瘡、其の勢ひ、乳垸に及ぶ。彼の毒気、腹中に入る。振はるるは、或いは頸、事に従はざるなり)
晩年は子どもたちに次々と先立たれた
翌25日には、法成寺の阿弥陀堂に移ると、その翌日に危篤状態に陥ったという。 12月2日には、医師の丹波忠明が背中の腫れ物に鍼を刺して膿を出すと、道長は悲痛の叫びをあげて、昏睡状態に入った。
道長がいまわの際で自身の生涯を振り返ったとき、それは華やかなものだっただろうか。望月の歌とともに「一家三立后」のインパクトが大きいがゆえに、どうしても栄華ばかりが注目されがちだが、病に伏せてからは我が子に次々と先立たれている。
万寿2(1025)年には、敦明親王の女御となっていた三女の寛子は27歳で死去し、さらに敦明親王の妃だった六女の嬉子は19歳で命を落とす。そして万寿4(1027)年に、出家していた三男の顕信が34歳で亡くなった。その4カ月後には、次女の妍子にまで先立たれると、道長はこう悲嘆に暮れたという(『栄花物語』)。
「老いた父母を置いていってしまわれるのか」
道長は昏睡状態になってから2日後の万寿4年12月4日(1028年1月3日)に病没。61年におよぶ激動の生涯に幕を閉じた。
【参考文献】
山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社)
『藤原道長「御堂関白記」全現代語訳』(倉本一宏訳、講談社学術文庫)
『藤原行成「権記」全現代語訳』(倉本一宏訳、講談社学術文庫)
倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館)
今井源衛『紫式部』(吉川弘文館)
倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)
関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』 (朝日新書)
倉本一宏『三条天皇―心にもあらでうき世に長らへば』 (ミネルヴァ日本評伝選)
真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)
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