伊周がさらに一条天皇の母・藤原詮子にまで働きかけたために、実資からは「このことはきっと嘲笑されるだろう。ようやく顎が外れるほどのことだ」とさらに辛らつな言葉を日記に記されることになる。
伊周がこれだけ焦ったのは、父の道隆に弟たちがいたからにほかならない。道兼と道長である。
弟がいなかった道長の強運
伊周が危惧したとおり、幼少期から弟の道長と親しかった詮子は、息子である一条天皇に働きかけて、伊周の関白就任を阻む。
関白の座は道隆から息子の伊周ではなく、弟の道兼に引き継がれ、道兼が数日後に病死して「七日関白」に終わると、今度は関白に準じた役職「内覧」の地位が弟の道長に与えられることになる。
伊周がのちに「長徳の変」と呼ばれる、花山院に矢を射るという前代未聞の事件を起こすのは、その後のことである。8歳年上の叔父・道長との出世争いを繰り広げるプレッシャーで、精神的に追い込まれていたのではないだろうか。伊周は失脚することになる。
亡き父の道隆にとっても、最も恐れていた展開が現実になったといえるだろう。息子の伊周を露骨に引き上げ続けた道隆に、もし弟がいなければ、すんなりと息子の伊周にその座をわたすことができたはずだ。
思えば、伊周の祖父で、道隆や道長の父である兼家もまた、兄弟の存在には苦労させられた。兄の兼通にとことん出世を邪魔されたのだ。兼通からすれば、弟の兼家が脅威でもあったのだろう。
その点、兼家にとって5男の道長は末子であり、弟がいない。そのため、何の障害もなく、息子の頼通に摂政の座を譲ることができた。何かと運に恵まれた道長らしい展開である。
息子への承継が見えてきて、これまでひた走ってきた道長もほっとしたのだろう。息子に摂政を譲る前に、浄妙寺に眠る亡き父母の兼家と時姫、そして姉の詮子の墓参りをしている(『御堂関白記』寛仁元〔1017〕年2月27日)。
兼家や時姫はもちろんのこと、道長にとっては、常にバックアップしてくれた姉の詮子への感謝も改めて伝えたのではないだろうか。頼通を内大臣に任じたのは、その翌日の2月28日のことだ。そして、3月16日に冒頭で書いたように、父の道長から頼通へと摂政の座が承継されることとなった。
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