とはいえ、頼通に摂政を譲ったあとも、道長は「大殿」と呼ばれながら、政治力を持ち続けている。三条天皇が寛仁元(1017)年5月9日に崩御すると、三条天皇の第1皇子・敦明親王は東宮の座から降りて、後一条天皇の弟・敦良親王が東宮となった。
さらに翌年の寛仁2(1018)年には、道長の四女にあたる威子が後一条天皇のもとに入内し、中宮となる。彰子が太皇太后、妍子が皇太后、そして威子が中宮となるという「一家三立后」を成し遂げた道長。一族の繁栄はさらに盤石なものとなった。
「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも 無しと思へば」
絶頂のなか、道長がそんな和歌を残したことはよく知られている。だが、道長の体内では「欠けるものがない」どころか、大きな作用が欠如しつつあった。
体調の変化を実資に打ち明けていた
長和5(1016)年5月11日の『小右記』によると、このとき51歳だった道長は、実資に自身の健康状態についてこんなふうに語ったという。
「3月の頃からしきりに水を飲むようになった。近頃は昼夜なく水を飲みたくなる。口が渇いて、脱力感がある。ただし、食欲は以前に変わらない」
(去三月より頻りに漿水を飲む。就中近日昼夜多く飲む。口渇き力無し。但し食は例より減ぜず)
症状を聞いて、ピンと来た人もいることだろう。道長は糖尿病を患っていたのではないかといわれている。
「やたらと喉が渇く」という症状が出ると、平安時代には「飲水病」、あるいは「口渇病」と呼んだ。藤原家には、現在の「糖尿病」にあたる症状を持つ人が非常に多くいた。道長が糖尿病になったのは、遺伝的な要因も大きかったことだろう。
「望月の歌」を詠んで翌年の年明けから胸病に苦しめられると、翌月の2月まで続き、3月には出家を遂げている。いったんは平癒するものの、その後もたびたび病に苦しめられた。
もはや病から逃れられないのを悟ったのだろう。出家後の道長は極楽浄土を夢見て、自邸の近くに法成寺を建立することに心血を注ぐ。
法成寺の造営にあたって、諸国の受領が奉仕したが、それでもまだ足りないと、公卿や僧侶、民衆にも大きな負担を命じたという。自分のやりたいことを強引に突き進める道長のスタンスは、身体が衰えても相変わらずだったらしい。
やがて、視力低下にも悩まされると、「眼病に苦しんだ三条天皇の祟りではないか」と噂された。糖尿病による糖尿病性白内障も発症していた可能性がある。
そのうち下痢が激しくなり、背中に大きな腫れものができる。万寿4(1027)年11月24日には、震えまで出てきた。針博士の和気相成(わけのすげしけ)はこんな見立てを行っている。
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