寛弘5(1008)年8月26日、まもなく彰子に子が産まれそうなときのことだ。
彰子がさまざまな香を混ぜて練り香を作って、女房たちに配っていた。式部も彰子のもとに受け取りにいき、部屋に戻ろうとすると、「宰相の君」の部屋の前を通りかかった。宰相の君とは、藤原道綱の娘・豊子のことで、式部と同じように女房として彰子に仕えていた。
昼寝中の女房とキャッキャと戯れる
式部が部屋をのぞいたところ、豊子は昼寝をしていたという。その姿を、式部はずいぶんと観察していたようだ。『紫式部日記』に、次のように記している。
「萩や紫苑など、色とりどりの衣を中に着て、濃い紅でつやつやの小袿を上に羽織り、顔は衣の中にすっかり隠し、硯の箱を枕としておやすみになっておられ、少しだけ見えている額のあたりが、実に可愛らしくて、艶めいて見える」
(萩、紫苑、いろいろの衣に、濃きがうち目、心異なるを上に着て、顔は引き入れて、硯の箱に枕して、臥し給へる額つき、いとらうたげに艶かし)
目を奪われているうちに「絵に描かれるような、素敵なお姫様のような雰囲気だわ!(絵に描きたるものの姫君の心地すれば)」とテンションが上がったようだ。寝ている豊子に、式部は声をかけた。
「まるで物語の女君のようですね!」(「物語の女の心地もしたまへるかな」)
これに対して豊子は「どうかしていますよ……眠っている人を無理やり起こすなんて」(「もの狂ほしの御さまや。寝たる人を心なく驚かすものか」)と呆れながらも、照れた様子だったとか。
まるで学校の休み時間のようだ。式部にとっては、かつては落ち着かなかった内裏が、この頃には、大切な居場所になっていたのだろう。
式部が女房を辞めるときには、代わりに娘の賢子が、彰子の女房をつとめるようになる。娘に同じ道を歩ませたのは、自身が女房の仕事を思いのほか楽しめたからではないだろうか。
しかしもちろん、女房としての生活は楽しいことばかりではなく、面倒なことも日常的に発生する。
無事に彰子が敦成皇子を出産すると、しばらくは何かと宴会が開催された。そのたびに貴族たちが酒に乱れるので、女房たちも大変だったようだ。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら