生後50日のお祝いにふさわしいものだ。これには道長も「なかなか上手に詠んだものだ(「あはれ、仕うまつれるかな」)」と二度も繰り返しながら、自身はこんな歌を返した。
「あしたづの 齢しあらば 君が代の 千歳の数も かぞへとりてむ」
意味としては「この私にも、鶴のような千年の長寿があるのなら、若宮の千年の歳も数えてあげられるのですが」というものだ。
その出来映えに、道長自身がずいぶん満足したらしい。「中宮様、お聞きですか?うまく詠みましたぞ」と自画自賛。その後も「自分がいかによい夫で、よい父か」を語り始めたので、妻の倫子は居たたまれなくなり、その場を退出している。
浮かれた道長の相手をする女房たちはさぞ大変だったことだろう。
文句を言いながらも結局は娘に従う道長
五十のお祝いが終わると、「御前には御冊子作りいとなませたまふとて」とあるように、彰子が『源氏物語』の冊子を作ろうと言い出したという。寛弘5(1008)年11月のことである。
式部はさまざまな色の紙を選んでは、『源氏物語』の原稿を添えて、書家たちに清書するように依頼したという。その一方では、清書が終わったものからとじて冊子にしていった。バタバタと忙しそうだが、自分の物語が形になっていく様は、式部にとっても感慨深いものがあったことだろう。
そこに道長が現れると「いったいどんな子持ちが、この冷たい時季にこんなことをなさるのか」と呆れながらも、筆、墨、硯、高価な薄様紙を準備してくれたという。
また、当時、紙は高級だったにもかかわらず、彰子が式部にどんどん与えたので、道長は「もったいない……」と愚痴をいいながら、式部をこう責めている。
「あなたは奥に引っ込んでいるように見えて、こういうところはちゃっかりしておる」
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