藤原行成「道長も一条天皇も信頼」驚異の論破力 波乱万丈な人生、どう信頼を勝ち取ったのか?

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寛弘8(1011)年、自身が病に倒れて「いよいよ後継者を決めなければならない」というときにも、一条天皇は行成に相談している。

一条天皇の次は、皇太子である居貞親王があとを継ぐことが規定路線だ。実際に居貞親王は、三条天皇として即位することになる。では、三条天皇が即位するときに、誰が皇太子になるのか。つまり、次の次に天皇となる、次の皇太子を一条天皇は決める必要があった。

このとき、中宮となった彰子は一条天皇との間に、2人の皇子をもうけていた。第2皇子の敦成親王と、第3皇子の敦良親王である。

だが、一条天皇は、亡き定子との間に生まれた、第1皇子の敦康親王に継がせたいと考えたらしい。順番からいけば、第1皇子が継ぐのが自然なのも確かだ。中宮の彰子すらも、自身の子ではなく、敦康親王が後継者にふさわしいと考えていたという。

どちらを皇太子に?行成の意見

ところが、第1皇子・敦康親王を皇太子にすることについて、一条天皇から意見を聞かれると、行成は「敦康親王の立太子には反対」という立場をとった。「敦康親王について思い嘆くのは、当然のこと」と一条天皇に寄り添いながらも「皇統を継ぐ者は、外戚が朝廷の重臣かどうかが重要」だとした。

というのも、左大臣の道長が、外孫にあたる敦成親王のほうを、皇太子にしたがるのは当然のこと。いくら一条天皇が敦康親王を皇太子にしようとしても、道長は簡単には承知しないだろう。

強引に敦康親王を皇太子に立てると、批判や不満の声が上がることは避けられない。下手すれば、政変が巻き起こるだろう。そうなれば、追い込まれるのは敦康親王である。

強力な後ろ盾がいない敦康を皇太子に据えても、混乱を招くのみ。それならば、十分な恩給を与えて、有能な人材を仕えさせたほうが、敦康親王のためにもなるのではないか……というのが、行成の意見だった。道長の気質を踏まえたうえでの、今後を見通した現実的な提言といえよう。

一条天皇は、敦康の擁立を断念。道長の孫にして、第2皇子の敦成親王が立太子されることとなった。

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