藤原行成「道長も一条天皇も信頼」驚異の論破力 波乱万丈な人生、どう信頼を勝ち取ったのか?

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しかし、行成が生まれた年に伊尹は49歳で死去。さらに3歳のときには、父が亡くなっている。外祖父の源保光(やすみつ)に養育されることになるが、行成が24歳になった長徳元(995)年に、保光も疫病により死亡してしまう。

摂政の孫に生まれながらも、後ろ盾を次々と失くしてしまった行成。花山天皇とは外戚関係にあったが、藤原兼家が策略を巡らした寛和2(986)年の「寛和の変」によって、花山天皇が出家すると、外戚の地位を失っている。

先行きが見えずに将来が不安だったに違いない。だが、長徳元(995) 年、保光という後ろ盾を失ってすぐに転機が訪れる。蔵人頭だった源俊賢が参議に昇進すると、後任として行成が蔵人頭へと抜擢されたのである。

出世の背景には、「四納言」では最年長の俊賢からの推挙があったと伝えられている。そんな幸運に恵まれたのは、家運が傾くなかでも行成が腐ることなく、誠実に働いていたからこそだろう。

翌年の長徳2(996)年には、行成は権左中弁に任じられている。藤原伊周が花山院に矢を射るという前代未聞の「長徳の変」が起きた年である。伊周が失脚して、道長が確固たる地位を築いていくなかで、道長を支える行成も力をつけていくことになった。

蔵人頭とは、いわば天皇の秘書官長であり、行成は一条天皇の最も傍にいたといってもよい。そのため、道長にとって「ここぞ」という正念場で、蔵人頭である行成が一条天皇の説得役として、大いに活躍した。

道長が娘の彰子を一条天皇の中宮にしようとしたときも、行成の弁舌が光った。一条天皇にはすでに中宮の定子がいた。このうえ、彰子まで中宮になれば、1人の天皇に2人の后がいることになってしまう。

「一帝二后」は前例がないうえに、一条天皇は定子を寵愛し、すでに第1皇女の脩子内親王と、第1皇子の敦康親王も生まれていた。一条天皇としては、宮中をざわつかせてまで、道長の娘・彰子を中宮にする理由は一つもないように思えただろう。

彰子を中宮にさせた「巧みな論理」とは?

はたして行成は、どんなふうに説得したのか。まず、中宮とは本来、神事に奉仕するために設けられていることを強調。現状の問題点をこう説明した(長保2〔1000〕年1月28日付『権記』より)。

「現在の藤氏皇后は、東三条院・皇太后宮・中宮みな出家しているので、氏の祀りを務めない」

定子が出家してしまっているため、本来の中宮の務めを果たせていないというのだ。中宮の意義に立ち返った、もっともな理論展開だといえるだろう。

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