そして「我が朝は神国である。神事を先とすべきだ」と畳みかけている。ちょうど大水、地震などの怪異が続いていただけに、一条天皇としてもそこを突かれると、痛かったに違いない。
さらに行成は、すでに出家して神事に携われない定子が、中宮のままでいることが、むしろ異例だとまで言った。
「中宮は正妃であるとはいっても、すでに出家されている。そのため、神事を勤められない。特別な天皇の私恩があるというので、中宮職の号を停止されることなく、すべて封戸を納めているのです」
「特別な天皇の私恩」という言葉に、異常な状況を作り出したのは誰なのか……と言外に一条天皇への批判が込められている。一条天皇としては、定子に思わぬ矛先が向かないようにするためにも、新たに中宮を設けざるを得なかっただろう。
長保2(1000)年2月、中宮の定子を皇后宮としたうえで、道長の娘・彰子が中宮として立后されることになった。行成に対して、道長は「子どもの代まで感謝する」という言葉をかけていたが、その期待に見事に応えたといえよう。
道長だけではなく一条天皇からも信頼
6年にわたって蔵人頭を務めた行成。長保3(1001)年8月、ついに参議に任ぜられた。長男が生まれたばかりということもあり、行成は気を引き締めたことだろう。
実はこれより半年前の2月4日の時点で、行成は蔵人頭の辞任を申し出ていた。参議昇進を希望しての駆け引きだったのか、精神的なストレスからの辞任願いだったのかは、わからない。
確かなのは、一条天皇は行成の辞職願を却下しているということだ。それだけ必要な人材だったのだろう。9月7日、行成が初めて参議として参内したときには、一条天皇からこんな言葉をかけられている。
「蔵人頭の職からは去ることになるが、これからも聞き得たことを奏上するように」
道長だけではなく、一条天皇も行成の働きぶりを信頼して、頼りにしていたことがわかる。一条天皇は行成を、敦康親王の生活費を切り盛りする家司別当(けいしべっとう)にあてた。敦康親王をバックアップしてほしいという願いを込めてのことだろう。
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