「一条天皇の願いもド忘れ」道長の意外すぎる一面 強気に見える道長も、いろんなミスをしていた
言い間違いくらいならば、大した話ではありませんが、道長は、一条天皇からの「土葬にしてほしい」とのご意向(一条天皇の父・円融院の隣に土葬してほしい)を、失念してしまい、1011年の崩御後には、火葬にしてしまいました。
「何日か、まったく覚えていなかった。今、思い出した。しかし、すでに決まってしまったのである」と道長は言ったといいますが、これはもう、言い間違いどころの話ではありません。おそらく、意図的な嫌がらせなどではなく、道長は本当に忘れていた可能性があります。
また、娘が急に体調を崩したときも、道長は慌てふためいてしまい、やるべきこと(公卿などに禄を下賜)を忘れてしまいました。後になって、気が付くことになるのです。
命じた内容すら忘れる道長
1017年に土御門第(道長の邸宅)の倉に盗人が入ったときには、こんなこともありました。
道長は疑いをかけられた藤原高親を呼び寄せて事情を聞こうとします。しかし、高親は道長に仕えていた亡き藤原高扶の子であることが判明し、やはり召問はやめようということになりました。そのことを命じるため、道長は検非違使(都の治安維持を担う)を呼びます。
このとき道長は、「高親を召問せず」と伝えるのを忘れてしまい、ほかのことを命じてしまいました。後で、道長の息子の頼通から「高親を召問した」と聞いて、道長は自分がど忘れしていたことに気がつき、高親を放免しました。
誰にでも忘れることはありますが「おいおい、大丈夫か……」と突っ込みたくなる道長の物忘れでありました。
冒頭で紹介した歌を詠むとは思えないほどの道長の間の抜けようではありますが、人間臭くて、どこか、可愛らしくもあります。
1009年に道長に対する呪詛が判明したときなども、道長は出仕を遠慮するということを言い出しています。「我が身の大事のため」とのことですが、小心者な一面もあったのです。
道長が強気だったのは、娘の立后や、立太子のときだけということも言われていますが、それは道長が権力を得るための勘所を押さえていたということでしょう。何でもかんでも強引に進めてしまえば、反発を招き、権力が瓦解する可能性もありました。そうした点で道長は、権力の本質をよく理解していたのです。
(主要参考・引用文献一覧)
・清水好子『紫式部』(岩波書店、1973)
・今井源衛『紫式部』(吉川弘文館、1985)
・朧谷寿『藤原道長』(ミネルヴァ書房、2007)
・紫式部著、山本淳子翻訳『紫式部日記』(角川学芸出版、2010)
・倉本一宏『藤原道長の日常生活』(講談社、2013)
・倉本一宏『藤原道長「御堂関白記」を読む』(講談社、2013)
・倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023)
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