「一条天皇の願いもド忘れ」道長の意外すぎる一面 強気に見える道長も、いろんなミスをしていた

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時代は異なりますが、死を前にした天下人・豊臣秀吉が幼少の子息・秀頼の行く末を案じ、徳川家康ら「五大老」に秀頼を盛り立ててくれと頼んだことを想起させます。

道長は「私は元来、怠惰な愚者です。朝廷の政務を乱すことも多かった。今は、病が重くなっている。官職を去り、出家しようと思っています」と述べています。

病で弱気になったということもあるのでしょうが、とても後ろ向きで、自己肯定感が低いようにも見受けられます。

いや、それはたまたま病のときだったからでしょう、普段はグイグイと政権運営をしていたに違いないと思う人もいるかもしれません。

普段から強気な政権運営ではなかった?

ところが、道長は普段から、強引な政権運営はしていなかったのです。

村上天皇の御代の960年に、内裏が焼失します。焼け跡から「神鏡」が掘り出されましたが、1005年に再び火災に見舞われ、神鏡は損傷してしまいます。神鏡の本来の姿が失われてしまうまでになってしまいました。

この神鏡を改鋳(鋳造し直すこと)するかどうか、1006年に「神鏡定」が行われることになりました。

天皇の御前において、公卿が集まって会議が行われる中、道長・伊周・公任らは「祈祷や占いをして、その結果で判断するべき」と主張しました。その結果次第では、神鏡を改鋳してもいいとの意見でしたが、それは少数意見でした。多数意見は「神鏡を改鋳すべきでない」というものだったのです。  

「このようなときには、道長は強引に自分の意見で推し進めていきそうだ……」と思ってしまいがちですが、実際はそうではありませんでした。多数派の意見が通ったのです。

「決定することは難しい」と道長も日記(『御堂関白記』)に書いているように、道長は強引な政務をすることはありませんでした。

また、人間ですからミスをすることもあります。

1013年の豊明節会(大嘗祭や新嘗祭の翌日に行われる宴会)では、本来ならば「刀禰(とね)召せ」(王卿に着座を命じる)と言うべきところで、「敷居に」と言ってしまい、「とても大きな失態だった。数年の間、このような失態をしたことはなかった」と大いに後悔しています。道長が40代後半ごろの話です。

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