IT企業勤めをやめ、しぶしぶ家業の「木村石鹸」(大阪府八尾市)を継いだ木村祥一郎さんは4代目。実家は大正時代から続く老舗の町工場で、釜の中で成分を反応させてつくる「釜焚き製法」を守って石鹸や洗浄剤などをつくっていました。
2013年に木村石鹸に戻ってきた当時、事業の継続に不安だったという木村さんにどのような心境の変化が起き、100周年を無事に迎えられたのか。木村さんの著書『くらし 気持ち ピカピカ ちいさな会社のおおらかな経営』より一部を抜粋し、紐解いてみます。
この記事のシリーズ
【1本目】「仕方なく」家業を継いだ男性に起きた心境の変化(本記事)
【2本目】木村石鹸「自己申告型給与制」に込めた会社の願い
【3本目】「万人向けでない」と明言のシャンプー人気のなぜ
【4本目】木村石鹸「非効率な」固形石鹸づくり再開の物語
【1本目】「仕方なく」家業を継いだ男性に起きた心境の変化(本記事)
【2本目】木村石鹸「自己申告型給与制」に込めた会社の願い
【3本目】「万人向けでない」と明言のシャンプー人気のなぜ
【4本目】木村石鹸「非効率な」固形石鹸づくり再開の物語
うちの社員は、ほんまにすごい
「なぁ、うちの社員はすごいんやぞ」
親父がそう自慢してくるたびに、僕は心の中で「こんな地方の小さい会社にすごいやつがいるわけないやん」と小馬鹿にしていました。
親父は石鹸会社の社長です。社員数名。典型的な地方の零細メーカー。社長といっても製造もするし営業もする。いつも作業着を着て、どろどろになるまで働いていました。
僕にはその姿はものすごく格好悪く見えたんです。そういう姿に憧れて、父親と同じ道を歩みたいと思う人もいるのかもしれませんが、僕は逆でした。毎朝スーツを着て出社するお父さんをもつ周りの友達がうらやましかった。
住まいと工場は同じ場所にあり、親父はいつも目の前の工場にいて、石鹸を焚いたり、箱詰めをしたり、工場を修理するのに溶接したり、鉄を切ったりと「いったい何屋なんだろう」と思うくらい、あくせく働いていて。
1975年ごろの工場で撮影された木村社長の写真。幼い木村社長が手にしているのは、1963年発売の衣料用洗剤「ホワイトベアー」(写真:木村石鹸)
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